|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伊達市(だてし)は、福島県北部の市。2006年(平成18年)1月1日、伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して誕生した。
目次 |
地域名として親しまれている郡名を市名とした。福島県伊達郡の伊達町、保原町、梁川町、霊山町、月舘町が合併したが、市名はあくまで郡名に由来し、旧伊達町が中心となって合併したというわけではない。市役所本庁舎は旧保原町、分庁舎は旧梁川町にある。
また、伊達郡の中に昔から伊達という地名があった訳ではない。東北本線伊達駅は、もともと伊達郡長岡村にある長岡駅として開業したが、信越本線長岡駅との駅名の重複を避けるため、1924年(大正13年)12月に、郡名に由来して伊達駅と駅名を変更した経緯がある。旧伊達町の町名は、1940年(昭和15年)に旧長岡村が町制を施行する際に、長岡村内にあった東北本線伊達駅から町名をとった経緯がある。
江戸時代の前期以前は伊達は「だて」ではなく「いだて」または「いだち」と読んだ。
北海道に伊達市があるため、府中市(広島県府中市 1954年(昭和29年)3月31日市制施行、東京都府中市 同年4月1日市制施行)に続く全国で2例目の「同名市」の誕生となるが、伊達郡は伊達政宗で有名な伊達氏が鎌倉時代から室町時代の間本拠地とした地であり、北海道伊達市は伊達氏の家臣である亘理伊達氏の末裔が入植したことから、両者には間接的に歴史的なつながりがある。
北海道伊達市と区別するため、テレビ番組などではしばしば「福島伊達市」あるいは「福島伊達」という字幕が表示されるが、「福島県伊達市」の意味であり、「福島伊達」という市名ではない。物品などを配送する場合は、北海道伊達市との区別のため、郵便番号や県名を必ず記載し配達地域を特定させる必要がある。
面積265.1平方キロメートル。
平野部を含むため、福島県内でも比較的経済活動が活発で人口も多い地域である。福島県内の自治体として、人口は第7位、農業生産額は第3位、製造品出荷額は第6位、商品販売額は第8位、財政規模は第8位となる。
人口、商工業、農業は、福島盆地の平野部である旧伊達町、旧保原町の北部、旧梁川町の西部が中心となっている。旧伊達町は、合併前、福島県内で最も人口密度の高い自治体であった。一方で旧梁川町東部、旧保原町南部、旧霊山町、旧月舘町は阿武隈高地の山間部で、人口密度も低く、林業や農業が中心で過疎化も進んでいる。これらの山間部ではインフラ整備も遅れており、携帯電話が使えない、ブロードバンド回線が使えない、水道もない地域が多い。
隣接する福島市への通勤通学も多く、福島市の郊外地域、衛星都市としての性格も強い。福島県北部の中心地域である福島盆地は、西側を福島市、東側を伊達市と伊達郡国見町・桑折町が占め、文化的、経済的に不可分な状態にある。
福島県
伊達市は福島盆地とその周囲を山地を含む地域の北東側を占める。福島盆地が誕生したのは約20万年前の中期更新世で、その後緩やかに沈降しながら時に隆起し、盆地内に平野部と段丘を形成して現在に至っている。伊達郡桑折町の平林遺跡では約3万年前の旧石器時代の打製石器が発見されているため、少なくともそのころには人の営みが始まっていた。
古墳時代前期、福島県域ではまず会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳などが作られ始めているが、中期(5世紀)となると、会津地方よりもむしろ中通り地方で多く古墳が作られるようになり、伊達市を含む福島盆地でも数多くの古墳が作られた。伊達市内には愛宕山古墳群、大泉みずほ古墳群、新山古墳群などがある。
5世紀末、福島盆地も大和朝廷の支配下にはいり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれた。信夫(しのぶ)は福島盆地一帯の名称である。信夫近隣では伊具(宮城県伊具郡・角田市)、思(おもい)(宮城県亘理郡)、阿尺(あさか)(福島県郡山市)、染羽(しねは)(福島県双葉郡)、白河(福島県白河市)に国造がおかれた。氏姓制度では血縁を表す氏(うじ)と職務を表す姓(かばね)が定められたが、信夫国造は久麻直(くまのあたい)なので、信夫国造の姓が直(あたい)であったことがわかる。また、信夫国の部民は、丈部(はつかせべ)、壬生部(みぶべ)、太田部(おおたべ)などがいた。また、大和朝廷勢力圏の北限として、蝦夷に対するため、軍備の任も担っていた。また陸奥国開拓のため、関東や近畿地方からの半ば強制的と思われる大量移民も行われていた。太田部とは新田開発のための移民団である。
7世紀中期 - 8世紀初頭には地方行政が再編され、国(くに)は評(こおり)を経て郡(こおり・ぐん)と名称が変わり、信夫国も信夫郡となった。また、道国郡制が整備され、東山道陸奥国信夫郡となった。行政官である国造も評司(こおりのつかさ)、郡司(ぐんじ)と変遷した。
701年(大宝元年)、律令制が始まると大和朝廷の勢力圏は現在の宮城県域まで北進し、それによって、718年(養老2年)には陸奥国の分国が行われた。陸奥国のうち、信夫郡、安積郡、岩背郡、白河郡、会津郡の5郡は石背国(いわせのくに)となった。同様に菊田郡、石城(いわき)郡、標葉(しねは)郡、行方(なめかた)郡、宇太(うだ)郡、曰理(わたり)郡は石城国となり、残る柴田郡、刈田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡等の北部が新しい陸奥国となった。ただし、分国された新しい陸奥国では北方防備に十分な経済力を維持できなかったため、724年(神亀元年)までにこの3国は再び合併して陸奥国に戻された。
10世紀初頭、各郡の大きさ(人口、経済力)を平均化するために全国的に郡の分割や再編を行ったが、福島盆地域では、信夫郡から伊達郡を分割した。ここに始めて伊達郡が誕生する。信夫郡には8つの郷(ごう)があったが、そのうち小倉郷(福島市南部、大森川以南で阿武隈川以西)、安岐郷(福島市中心部、大森川以北で松川以南で阿武隈川以西)、岑越(みねこし)郷(信夫山周辺、松川以北で摺上川以南で阿武隈川以西)、曰理(わたり)郷(福島市南部、阿武隈川以東の南部)が信夫郡として残り、伊達郷(福島盆地北部、摺上川以北で阿武隈川以西)、靜戸(しずりべ)郷(伊達市主要域、阿武隈川以東の北部)、鍬山(くわやま)郷(伊達市月舘町や伊達郡川俣町、伊達郡飯野町などの阿武隈高地域)が、新しく伊達郡となった。 当時の松川は信夫山(当時は岑越山)の南側を流れていたため、信夫山は松川以北となる。なお、荒川は須川(すかわ)と呼ばれていた。
11世紀末になると、奥州藤原氏が東北地方のほぼ全域を直接的間接的な支配下においた。信達地方(信夫郡と伊達郡)は、福島県中通りと会津をほぼ支配下におさめた藤原氏の一族である信夫佐藤氏の本拠地となった。
源頼朝の奥州征伐の事実上の決戦が伊達郡国見町の厚樫山(国見山)山麓で行われた。このとき、信夫佐藤氏の佐藤基治を破った功で、関東武士で中村氏(伊那氏)が源頼朝から伊達郡を拝領したため、常陸国中村荘から分家して伊達郡に定住して伊達氏を名乗るようになった。奥州伊達氏の起こりである。これ以降安土桃山時代まで、伊達郡は伊達氏の本拠地として、一貫して伊達氏支配下にあった。長く伊達氏が本城を置いた梁川(伊達市梁川町)では、梁川城が築かれ、伊達氏の勢力拡大とともに南奥州の中心地の一つとして、多数の寺社が建立されたり、中世庭園が造園されたりしている。室町時代、伊達氏は京文化の取り入れに熱心だった。
一方、南北朝時代には、1337年、南朝側の義良親王(後村上天皇)と北畠顕家が霊山(りょうぜん)に霊山城(伊達市霊山町)を構え、北朝に対する拠点となった。これを支えたのが伊達行朝(伊達行宗)である。義良親王や北畠顕家らは霊山から京に攻め上り、伊達行朝も北畠顕家従って上洛した後、帰山した。その後も南朝側として奮戦したが、1347年に霊山城は落城し、伊達行朝も翌年死去した。
伊達氏は勢力拡大や内紛を経て、本城を梁川城から桑折西山城、米沢城、会津黒川城へと移していくが、豊臣秀吉が奥州仕置で伊達政宗を岩出山に転封したことにより、伊達郡は会津に入封した蒲生氏領を経て、越後から会津に改易された上杉景勝領となった。関ヶ原の戦いの折りには、旧領回復を目指す伊達政宗軍が福島盆地に攻め寄せて梁川から福島で激しい戦いが繰り広げられたが(松川の戦いなど)、上杉軍は伊達軍を撃退した。
関ヶ原の戦いの翌年、上杉景勝は徳川家康に会津や中通り中部の諸郡を没収され、120万石から置賜郡(長井郡)と信夫郡、伊達郡のみの30万石になって江戸時代を迎えた。
江戸時代初期の伊達郡は上杉氏米沢藩領であり、米沢藩の福島奉行(信夫伊達両郡代)の支配下となった。120万石から30万石となっても家臣の多くを抱えたままだったため、米沢藩では深刻な財政難に陥り、新田開発なども積極的に行われた。伊達郡北部では西根堰の完成により、飛躍的な増産を実現している。その後、1664年(寛文4年)の相続問題により、信夫郡、伊達郡は米沢藩より召し上げられ、米沢藩は15万石、信夫郡と伊達郡は天領(幕府直轄領)となった。
1679年、本多氏福島藩15万石が成立するが、本多氏は1682年には転封され、再び天領となる。続く1683年に松平氏梁川藩3万石が成立する。この梁川藩の成立によって、ながらく続いた信達平野(信夫郡伊達郡)の一括支配は終わりを迎え、この後明治維新まで、伊達郡、信夫郡とも、村単位で梁川藩領、福島藩領、天領、他藩の飛び地、預かり地などがめまぐるしく入り乱れる。桑折藩(伊達郡桑折町)や下手渡藩(伊達市月舘町)も置かれた。
たとえば、梁川一帯はすべて梁川藩というような単純なものではなく、梁川藩領の中に天領があったり、五十沢(いさざわ)(伊達市梁川町)が桑折陣屋管轄なのに、五十沢と桑折の間の川内は川俣陣屋管轄であったり、半沢や成田(いずれも伊達郡桑折町)が福島藩の飛び地であったり、福島藩と梁川藩の間に二本松藩の飛び地があったり、という具合だった。また、梁川藩自体も、廃藩になったり、松前氏梁川藩となったり、会津藩や平藩の飛び地になったりした。
一方、江戸時代を通じて伊達郡一帯では養蚕業が発展し、特に梁川は全国的に知られる蚕都となった。江戸時代中期には、全国の蚕種生産高の半分以上は信達地方の生産だったという。幕末には品種改良や温暖育の技術を完成させ、蚕当計(養蚕用温度計)の発明によって、科学的な養蚕…高品質な生糸の安定生産を実現した。こうした好景気によって、民間レベルの学問の向上、全国からの蚕種・生糸買い付け人を迎えるための遊興施設や宿施設の充実などが興り、それらが土壌となって大衆文化が花開いた。
幕末からの養蚕業による好景気は明治になるまで続いたが、その後の養蚕業の低迷によって現在、農業は果樹中心に転向している。特に桃やりんご、柿の栽培が盛んだ。特に五十沢で大正時代に発明されたあんぽ柿はこの地方の特産物として名高い。
一方、古来より信夫郡と伊達郡は同じ福島盆地として不可分の生活圏を構成していたが、福島市が福島県の県庁所在地となって急速に都市化したことにより、伊達郡域の町は福島市の衛星都市化した。特に高度成長期後にその傾向が顕著で、通勤通学も福島市へ行く人口が多い。
| 明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和29年 | 昭和30年 - 昭和63年 | 平成1年 - 現在 | 現在 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 大枝村 | 大枝村(西大枝・川内) |
昭和29年3月31日 藤田町などと合併して国見町 |
国見町 | 国見町 | 伊達郡国見町 | |
| 大枝村(東大枝) |
梁川町 | 昭和30年3月1日 梁川町 |
平成18年1月1日 伊達市 |
伊達市 | ||
| 梁川町 | 梁川町 | |||||
| 五十沢村 | 五十沢村 | 五十沢村 | ||||
| 富野村 | 富野村 | 富野村 | ||||
| 山舟生村 | 山舟生村 | 山舟生村 | ||||
| 白根村 | 白根村 | 白根村 | ||||
| 堰本村 | 堰本村 | 堰本村 | ||||
| 粟野村 | 粟野村 | 粟野村 | ||||
| 保原町 | 保原町 | 保原町 | 昭和30年3月1日 保原町 |
|||
| 大田村 | 大田村 | 大田村 | ||||
| 柱沢村 | 柱沢村 | 柱沢村 | ||||
| 富成村 | 富成村 | 富成村 | ||||
| 上保原村 | 上保原村 | 上保原村 | ||||
| 伏黒村 | 伏黒村 | 伏黒村 | 昭和30年9月30日 伏黒村が伊達町を編入 昭和32年1月1日 町制改称 伏黒村が伊達町に |
|||
| 長岡村 | 昭和15年4月1日 町制改称 伊達町 |
伊達町 | ||||
| 掛田村 | 明治31年1月19日 町制 |
掛田町 | 昭和30年1月31日 霊山町 |
|||
| 霊山村 | 霊山村 | 霊山村 | ||||
| 石戸村 | 石戸村 | 石戸村 | ||||
| 小国村 | 小国村 | 小国村 | ||||
| 小手川村 | 昭和3年1月1日 町制改称 月舘町 |
月舘町 | 昭和30年3月1日 月舘町 |
|||
| 小手村 | 小手村 | 小手村 | ||||
| 明治26年2月3日 小島村 |
小島村 | 昭和30年3月1日 川俣町に合併 |
川俣町 | 伊達郡川俣町 |
伊達郡では当初、桑折町、国見町、川俣町、飯野町を含む9町による郡全体での合併を検討し、2000年(平成12年)10月に伊達地方広域行政推進調査会を、2003年(平成15年)7月には伊達地方任意合併協議会を設置して協議してきたが、川俣町、飯野町は福島市との合併を検討するとして離脱し、2003年(平成15年)12月に7町による伊達7町合併協議会を設置した。
法定合併協議会では地元住民を対象に、合併後の新市名を公募したが、北海道に伊達市があるため、公募にあたっては選定基準、募集要項から「伊達市」を除外したが、実際に公募を締め切ったところ、「伊達市」も多く寄せられた。
協議の結果、新市名称及び事務所の位置検討小委員会は公募で1位となった「だて市」のほか、「桃花(とうか)市」、「あぶくま市」、「新伊達市」、「伊達みらい市」の5点を最終候補としたが、「伊達」に関する応募が多いこと、歴史があり永く親しまれてきた名称であること、沖縄県宮古島市の合併で既存市名である宮古市を用いる動きがあったことなどから、「伊達市」の取り扱いについては協議会に判断を委ねることとなった。
「市」の名称に、既存の市と同じ名称をつけることについては、これを避けるようにとする自治省(現総務省)の通達(昭和45年3月12日付け自治振興策第32号自治事務次官通知)があったが、この通達について合併協議会が総務省に照会した結果、「既存市から異議がなければ問題はない」との回答を得た。その後北海道伊達市の意向を確認したところ、正式見解は得られなかったものの、合併協議会が独自の判断で新市の名称を定めることに対し「異議を唱える立場ではない」との回答を得た。こうした状況の変化から、協議会は公募で決まった5点の候補から「だて市」を選定し、それを漢字表記の「伊達市」にするという経緯を経て、最終的に新市名を伊達市とすることに決定した。
新市名については一般公募を行い、市名採用者の中から抽選で数名に記念品が贈られた。ただし、「『伊達市』を除く」として新市名を公募したにもかかわらず、最終的には伊達市が新市名となり、記念品は「だて市」と応募した人に贈られた。「『伊達市』を除く」という公募条件から、ひらがな市名を嫌って別の市名を応募した人も多く、この記念品贈呈の経緯にも批判の声がある。
その後、2004年(平成16年)8月になり桑折町長が突如合併協議会から離脱を表明し(これには賛否が分かれている)、同年11月に離脱したため、残る6町は伊達6町合併協議会を設置し合併協議を継続することとなったが、間もなく国見町で行われた町長選挙で合併慎重派の町長が誕生し、合併協議からの離脱を表明した。同町議会は合併推進の立場で町長と対立し、一時は新市の誕生が危ぶまれたが、残った5町で2005年(平成17年)1月に新たに伊達5町合併協議会を設置し、3月に合併協定調印に漕ぎ着け、5町議会、福島県議会の議決と総務大臣の告示を経て、2006年(平成18年)1月1日に「福島県伊達市」が誕生することとなった。
なお、伊達郡飯野町は、福島市と2008年(平成20年)7月1日に合併した。さらに、福島市は、伊達市と伊達郡の全てを合併して福島市を中核都市に格上げする構想、さらに二本松市や安達郡も合併に加えて政令指定都市をめざす構想もあるが、組織的な活動には至っていない。
合併に伴う住所表記変更は以下の通り。
なお、合併までの「大字」表記は、昭和の合併、明治の合併以前の村名を残したもので、伊達郡内で重複することがない。たとえば、「伊達郡梁川町大字五十沢」は、梁川町に合併する前は「伊達郡五十沢村」であった。したがって、「大字」地域に関しては旧町名を残さずに「伊達郡梁川町大字五十沢」→「伊達市五十沢」としたほうがすっきりしてよかったという、合併協議会の住所表記決定に批判的な意見は根強い。
市長:仁志田昇司(旧保原町長) 2006年(平成18年)2月5日の市長選告示で他に立候補者がいなかったために無投票当選。2007年(平成19年)2月5日現在62歳。
市役所は本庁に2005年(平成17年)に完成したばかりの旧保原町役場、分庁舎に1991年(平成3年)に完成した旧梁川町役場を使用する。市役所機能は部署によって本庁か分庁舎に分けている。本庁と分庁舎は道のりにして約6km離れている。また、基本的な住民サービスについては遠くから市役所まで出向く必要のないように、旧保原町役場、旧梁川町役場、旧伊達町役場、旧霊山町役場、旧月舘町役場に総合支所として窓口を設けている。旧保原町役場、旧梁川町役場は1階が総合支所、2階以上が市庁舎となる。
市庁舎、総合支所の組織は以下の通り。
| 伊達市と全国の年齢別人口分布 | 伊達市の年齢・男女別人口分布 | ||||||||||||||||||
|
■紫色 ― 伊達市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
This text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. Last update: 2010年3月22日 6:14:12:JST