| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県川西市 |
| 生年月日 | 1965年8月6日(44歳) |
| 身長 体重 |
180cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1989年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1990年4月11日 |
| 最終出場 | 2007年10月9日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銀 | 1988 | 野球 |
古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は野球解説者。芸能プロダクションは株式会社エーポイント所属。
ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。また、2005年シーズン終了後から引退年の2007年まで選手兼任監督を務めた。
目次 |
小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。
その後関西大学の他、立命館大学経営学部(夜間部)の一般入試を受験し、どちらも合格。志望していた関大へ進むことを決め、断るつもりで立命大へ挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命大野球部の中尾卓一監督に大喜びされてしまい、成り行きのまま1984年春、立命大に入学した[1]。
3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、また4年時の1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなど、その実力はプロ各球団からも注目された。11月のドラフト会議当日には会見用のひな壇が設けられたほどだったが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった[2]。 卒業後の1988年、トヨタ自動車に入社。入部した同社硬式野球部でも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組む。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。
1989年、古田のプレーに惚れ込んだヤクルトスカウト部長の片岡宏雄がトヨタを訪れて獲得の意思を本人に伝えた際、古田は「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も聞き直したという。ヤクルトは同年のドラフト会議で古田を2位指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せなかったと言われている。なお、野村がドラフト会場で直前になって「古田(の指名)はやめよう。捕手はワシが育てる」と発言したことに片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と喰い下がり(TBSで放送されたZONEにて告白)、「本当は古田を1位で指名したかった」と後に明かしている。
入団当初、野村の古田評は「肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流や」というものだったが、最大の武器である強肩を活かそうと、捕手としての技術をマンツーマンで教え続けた。当時ヤクルトの正捕手だった秦真司は課題の弱肩を克服できず、途中から古田がその座を奪い106試合に出場。リーグ1位の盗塁阻止率を記録しゴールデングラブ賞も獲得した。2年目の1991年、オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)でMVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であった。
翌1992年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録しMVPを受賞。シーズンも打率.316、自己最多の30本塁打、86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは西武に敗れたが、翌1993年の日本シリーズでは再び対戦した西武を倒して15年ぶりの日本一となり、この年の最優秀選手に選ばれた。1994年4月14日の対広島東洋カープ2回戦、前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折、シーズン序盤から長期離脱した。結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。
1995年は公式戦全試合に出場。オリックスブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。1996年は4位に終わったが、1997年に再び日本シリーズを制覇、捕手として初めてセ・リーグと日本シリーズ両方のMVPを受賞した。
1998年には史上343人目の通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。同年オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、また労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。
若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピック野球アジア予選の日本代表にチーム最年長選手として選出される。2000年はヤクルトが優勝争いに絡んだこともあり、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは五輪期間を境に上位戦線から脱落し、3シーズン連続の4位。自身は2度目の盗塁阻止率6割を達成。
2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは自己2番目となる打率.324を記録し、日本シリーズでは2度目のシリーズMVPを受賞した。
2005年4月24日に通算2000本安打を達成。4月27日の読売ジャイアンツ戦、左睾丸部打撲で全治1週間。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日に通算1000打点を達成。
2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。
またファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の穐田誉輝らを招聘。「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。
2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイ。一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿と五十嵐亮太の不調が原因で固定できなかった。
同年は監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績。一方選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己ワーストに終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。
2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスがセ・リーグ最多(プロ野球歴代2位)となる204安打を記録しタイトルを獲得。一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ8月までに出場した試合はわずか3試合。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。
9月17日に東京ヤクルトのBクラスが確定、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声がスワローズファンのみならず、ビジター球団のファンからも飛び交った。
神宮球場における最後の出場となった10月7日の対広島24回戦。8回裏の第4打席では、前日広島市民球場で引退セレモニーを行ったばかりの佐々岡真司が登板(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた)、遊ゴロに終わった。8回には石井一、また9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。引退試合となった翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの代打として最後のバッターボックスに立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。
10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け快諾した(ファンの間では「永久欠番にしてもいいのでは」という声も上がっていた)。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津に対し突如戦力外を通告した件について、球団からの事前通告や話し合いの機会が一切なかった事などに言及するなど、最後までフロントとの間にしこりが残った。
2007年11月21日付で任意引退が公示されヤクルトを退団。11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演。その後はコメンテーターとしてテレビ出演。解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会・野球日本代表の試合(テレビ朝日)。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演。(なお、プロ野球中継解説者としては特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)
なお、ファン感謝デー後には一部ファンから「古田さんを選手会終身名誉会長に!」という署名運動が神宮球場周辺にて行われていた。
かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があり、古田も眼鏡を着用していたことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評された。プロ入り後は野村監督によるマンツーマンの指導などで日本球界を代表する捕手となった。
捕手としては、蓄積された緻密な計算に基づく頭脳的なリードから「ID野球の申し子」と評された。投手には初球からウイニングショットや、逆に決め球にはど真ん中の直球を要求するなどの配球術で打者の裏をかいた。またボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。こうした高い技術は「打者は投手ではなく、古田と勝負している」などと揶揄されたほどであった。その一方、打者の身体を起こす内角高めの球を要求し、死球になってしまうことが多々あり、乱闘や口論などトラブルを招いたこともあった。その古田も歴代9位の通算111死球を喫している。
持ち前の強肩と堅守に加え、ワンバウンドなどを無理な体勢で捕球し即座に送球動作へと移る技術を磨いた。1991年に12人連続盗塁阻止し(岡田彰布に許し記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)。盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録し、1993年と2000年には阻止率6割以上という数字を残す。更には入団から13年連続盗塁阻止率4割越えと非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。
かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、敢えて両腕をルーズにして構えた。新人時代にそれを見た野村が「お前、もういっぺんやってみい」と再度構えさせ「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言ったという。もっとも、この構え方が原因で1994年に右手人差し指を骨折している。また「捕手のミットは小さいほどいい」と言われた当時、敢えて大きなミットを使用した。これも変化球に対応し、より確実な捕球を目指すためであった。
通算8回のシーズン打率3割を記録。特に走者を得点圏に置いた場面では勝負強さを発揮し、主に4番を任された1997年には本塁打9本ながら86打点を挙げ、犠打や進塁打などケース打撃も厭わない活躍から「バントもする4番打者」と言われた。また通算打率.294は7000打数以上の選手の中では歴代8位の記録である。
2000本安打達成時、「GET SPORTS」(テレビ朝日系)で「打者・古田敦也」が特集された。新人の頃落合博満の打撃を捕手側からみて参考にし、自分の打撃に取り入れたことを明かしている。また独自の打撃理論を持ち、「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから初球の重要性を挙げている。 しかし、本人自身は三振が少なく四球も比較的多いため、「早打ち」という訳ではない。
また、スライダー打ちの名手でもある。
| 年 度 |
チ | ム |
背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
失 策 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | ヤクルト | 27 | 106 | 334 | 280 | 32 | 70 | 12 | 1 | 3 | 93 | 26 | 1 | 1 | 3 | 4 | 43 | 4 | 44 | 11 | .250 | 2 | .332 | .358 | .690 |
| 1991 | 128 | 485 | 412 | 58 | 140 | 23 | 5 | 11 | 206 | 50 | 4 | 5 | 4 | 3 | 62 | 4 | 59 | 10 | .340 | 4 | .500 | .431 | .931 | ||
| 1992 | 131 | 568 | 474 | 87 | 150 | 27 | 3 | 30 | 273 | 86 | 3 | 2 | 1 | 4 | 78 | 11 | 87 | 12 | .316 | 7 | .576 | .425 | 1.001 | ||
| 1993 | 132 | 595 | 522 | 90 | 161 | 29 | 0 | 17 | 241 | 75 | 11 | 4 | 9 | 2 | 59 | 3 | 83 | 15 | .308 | 1 | .462 | .382 | .844 | ||
| 1994 | 76 | 287 | 260 | 24 | 62 | 9 | 0 | 3 | 80 | 19 | 3 | 0 | 1 | 3 | 20 | 3 | 40 | 11 | .238 | 2 | .308 | .300 | .608 | ||
| 1995 | 130 | 551 | 487 | 88 | 143 | 18 | 1 | 21 | 226 | 76 | 6 | 0 | 5 | 7 | 46 | 6 | 51 | 24 | .294 | 2 | .464 | .362 | .826 | ||
| 1996 | 119 | 492 | 437 | 57 | 112 | 24 | 2 | 11 | 173 | 72 | 5 | 1 | 4 | 1 | 46 | 4 | 68 | 22 | .256 | 3 | .396 | .333 | .729 | ||
| 1997 | 137 | 598 | 509 | 74 | 164 | 32 | 2 | 9 | 227 | 86 | 9 | 4 | 3 | 4 | 69 | 13 | 64 | 11 | .322 | 5 | .446 | .416 | .862 | ||
| 1998 | 132 | 552 | 491 | 58 | 135 | 19 | 1 | 9 | 183 | 63 | 5 | 4 | 3 | 4 | 46 | 8 | 62 | 14 | .275 | 3 | .373 | .347 | .720 | ||
| 1999 | 128 | 548 | 483 | 79 | 146 | 26 | 2 | 13 | 215 | 71 | 10 | 3 | 4 | 7 | 51 | 3 | 41 | 8 | .302 | 2 | .445 | .372 | .817 | ||
| 2000 | 134 | 562 | 496 | 65 | 138 | 31 | 0 | 14 | 211 | 64 | 5 | 5 | 6 | 4 | 45 | 11 | 54 | 15 | .278 | 4 | .425 | .351 | .776 | ||
| 2001 | 121 | 503 | 441 | 59 | 143 | 23 | 0 | 15 | 211 | 66 | 1 | 0 | 3 | 7 | 43 | 9 | 41 | 17 | .324 | 3 | .478 | .396 | .874 | ||
| 2002 | 120 | 458 | 420 | 49 | 126 | 24 | 1 | 9 | 179 | 60 | 3 | 0 | 3 | 1 | 28 | 6 | 47 | 15 | .300 | 3 | .426 | .352 | .778 | ||
| 2003 | 139 | 576 | 509 | 69 | 146 | 27 | 1 | 23 | 244 | 75 | 2 | 0 | 4 | 3 | 49 | 11 | 77 | 14 | .287 | 5 | .479 | .362 | .841 | ||
| 2004 | 133 | 532 | 483 | 72 | 148 | 23 | 0 | 24 | 243 | 79 | 1 | 2 | 0 | 3 | 36 | 10 | 66 | 11 | .306 | 2 | .503 | .367 | .870 | ||
| 2005 | 96 | 357 | 329 | 29 | 85 | 15 | 0 | 5 | 115 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 19 | 5 | 54 | 8 | .258 | 1 | .350 | .309 | .659 | ||
| 2006 | 36 | 98 | 90 | 11 | 22 | 5 | 0 | 0 | 27 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 13 | 4 | .244 | 0 | .300 | .299 | .599 | ||
| 2007 | 10 | 19 | 18 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | .333 | 0 | .389 | .368 | .757 | ||
| 通算:18年 | 2008 | 8115 | 7141 | 1003 | 2097 | 368 | 19 | 217 | 3154 | 1009 | 70 | 31 | 55 | 60 | 748 | 111 | 951 | 223 | .294 | 49 | .442 | .370 | .812 | ||
| 年度 | 試合数 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 同順位 | 捕逸 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990 | 106 | 55 | 26 | 29 | .527 | 1 | 5 |
| 1991 | 127 | 83 | 35 | 48 | .578 | 1 | 12 |
| 1992 | 130 | 60 | 31 | 29 | .483 | 1 | 2 |
| 1993 | 132 | 45 | 16 | 29 | .644 | 1 | 7 |
| 1994 | 76 | 24 | 12 | 12 | .500 | 1 | 2 |
| 1995 | 130 | 67 | 35 | 32 | .478 | 2 | 6 |
| 1996 | 118 | 60 | 36 | 24 | .400 | 3 | 7 |
| 1997 | 137 | 61 | 33 | 28 | .459 | 1 | 7 |
| 1998 | 132 | 68 | 38 | 30 | .441 | 1 | 10 |
| 1999 | 127 | 59 | 32 | 27 | .458 | 1 | 13 |
| 2000 | 134 | 73 | 27 | 46 | .630 | 1 | 7 |
| 2001 | 116 | 43 | 22 | 21 | .488 | 2 | 2 |
| 2002 | 113 | 52 | 30 | 22 | .423 | 3 | 8 |
| 2003 | 139 | 71 | 44 | 27 | .380 | 1 | 5 |
| 2004 | 130 | 58 | 43 | 15 | .259 | 6 | 8 |
| 2005 | 87 | 32 | 24 | 8 | .250 | 6 | 1 |
| 2006 | 21 | 10 | 9 | 1 | .100 | 1 | |
| 2007 | 6 | 5 | 5 | 0 | .000 | 1 | |
| 通算 | 1959 | 926 | 498 | 428 | .462 | 104 |
| 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2006年 | 東京ヤクルト | 3位 | 146 | 70 | 73 | 3 | .490 | 18 | 161 | .269 | 3.91 | 41歳 |
| 2007年 | 6位 | 144 | 60 | 84 | 0 | .417 | 20.5 | 139 | .269 | 4.07 | 42歳 |
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