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| 司馬 遼太郎 | |
|---|---|
| 誕生 | 福田 定一 1923年8月7日 |
| 死没 | 1996年2月12日(満72歳没) |
| 職業 | 作家 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1955年 - 1996年 |
| ジャンル | 歴史小説、推理小説、戯曲 |
| 主題 | 紀行文、随筆、評論 |
| 代表作 | 『梟のいる都城』(改題『梟の城』)(1958年) 『竜馬がゆく』(1962年) 『国盗り物語』(1963年) 『坂の上の雲』(1968年) 『街道をゆく』(1971年) |
| 主な受賞歴 | 受賞歴参照 |
| 処女作 | 福田定一名義: 『名言随筆・サラリーマン』(1955年) 司馬遼太郎名義: 『ペルシャの幻術師』(1956年) |
| 公式サイト | 司馬遼太郎記念館 |
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、日本の小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名は司馬遷に遼に及ばずからきている。
産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評を行った。
目次 |
1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。父方の祖父母は兵庫県出身であり、祖父・惣八は現在の姫路市広畑の農家に生まれ明治の初め上阪して菓子製造で成功した人物。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。
1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。
1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。
1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。さらに翌年、本土決戦のため新潟県、さらに栃木県佐野市に入り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。またアメリカが東京に攻撃に来た場合に栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦に「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」と司馬が隊長に聞いたところ隊長は「国家のためだ。ひき殺せ」といい、22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。その後すぐに図書館通いを始める。
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[1]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらい出来るだろう」と誘われ、英語が全く出来ないにもかかわらず「出来ます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。
翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を勤めた。
同年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではと、思われる。
1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。この「司馬遼太郎」というペンネームは、「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味であるという。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち「梟の城」に改題)の連載を開始。
1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[2] 。
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。だが、1962年(昭和37年)より「竜馬がゆく」「燃えよ剣」、1963年(昭和38年)より「国盗り物語」を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を始めた。この辺りの作品から、作者みずからが作中で随筆風に解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終の棲家となる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居しているが、「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続く『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓。1971年(昭和46年)から、紀行随筆「街道をゆく」の連載も始めた。1972年(昭和47年)には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。
『翔ぶが如く』『胡蝶の夢』『菜の花の沖』『箱根の坂』などを書いた後、『韃靼疾風録』を最後に小説から遠ざかる。エッセイ「風塵抄」「この国のかたち」「街道をゆく」の連載に絞り、日本とは、日本人とはなにかを問うた文明批評を行った。1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者に選ばれ、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも、台湾に渡り李登輝との会談を行ったり、青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[3]。
1996年(平成8年)1月、「街道をゆく」のシリーズ「濃尾参州記」取材を終える。直後の2月10日深夜、吐血して倒れ国立大阪病院に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。72歳だった。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院(現:大阪医療センター)は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆の「濃尾参州記」は未完となった。3月10日に「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれ、3000人が参列した。法名は、「遼望院釋淨定」。また従三位を追賜される。翌年には司馬遼太郎記念財団ができ、司馬遼太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に司馬遼太郎記念館が開館。司馬遼太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼太郎メモリアル・デー」を開催している。なお、NHK大河ドラマの原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」と称する「坂の上の雲」を含めると7作品である。
この項目で書く評価的記述については主に下記の参考文献欄に拠る。しかしこれら文献の他にも、司馬の著作物に付与された解説、新聞、雑誌での批評記事、更に『週刊朝日』が没後発表した『未公開講演録 愛蔵版 司馬遼太郎が語る日本』シリーズに続けて連載された「司馬遼太郎からの手紙」シリーズや「週刊司馬遼太郎」などの宣伝記事、PHP文庫の『文蔵』や文藝春秋の企画記事など、出版社による企画広告やその流れを汲む記事などで様々に司馬の作品、司馬の価値観は語られてきた。
歴史小説家としてはスコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、直接には司馬遷における『史記』列伝の形式を範にした作家とみることができる。
特徴としては、常に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物しか取りあげない。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内に散りばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。
評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。
そのユニークな文体は、のちに、渡部直己や清水義範のパステーシュの対象になったり[4][5]、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。
作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。
後年は小説から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を行ったところに特徴がある。
司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、また多くが映像化された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛らは多くの作品に重複して登場しており、現代の日本人が持つ「彼等の人物イメージ」は司馬の小説に大きく影響をうけている。
また、河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、人々は「歴史的人物としての彼等」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼等」を愛しているとも言える。
司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、司馬の考え方は狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとするなどの帝国陸軍的な発想の対極に位置するものであり、司馬はこれらを否定的に書くか、エッセイなどで否定している。司馬は近代合理主義がこれらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。例えば『燃えよ剣』では最後まで尊王と佐幕の思想的対立に悩みつづけた近藤勇ではなく、徹底して有能な実務家であったとされる土方歳三をとりあげたのは、こうした理由によるものであると言われる。
司馬の歴史観についての議論を見る上で時代性に関しての視点は重要であろう。思想的な流れとしては司馬が小説執筆に専念した当時は、一般に第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が強かった。そのため第二次世界大戦を痛烈に批判する論者の多い中で、その他の近代史に光をあてたことを評価する向きもある。また、司馬の登場以前、日本の歴史小説はいわゆる史伝ものか大衆娯楽を重んじた講談風の作品が中心だった。しかし司馬は資料収集を重視し、出版社や司馬に肯定的な立場の評論家等は高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したことを採り上げ、上質な娯楽として読むに足る物として、知識人(および知識人に憧れを持つ読者)が高く評価してきた。実際には同時代に実証性を重視した小説家が存在しなかった訳ではなく、例えば吉村昭、大岡昇平などは実証性の高い小説やノンフィクションを発表し、それらの多くは「暗い昭和」を対象とし、歴史研究者が二次資料として揚げることもある[6]。司馬が採り上げた時代についての歴史研究やノンフィクションは当時から多数存在していた(司馬は小説執筆にあたり膨大な資料を集めた事で知られるが、その事自体が既存の成果物が多数存在していた傍証とも言える)。
しかし、一般への人気なども相まって、実証性の高さから司馬の小説が小説作品としての枠を超えている、と評価する雰囲気が熱心な支持者により形作られてきた。司馬の影響を受け、自著で司馬の考え方を引用する者、司馬に憧れて小説家や歴史研究者となったことを述べている例も多く、高い視聴率で知られた大河ドラマにも複数回採り上げられている。そのため、司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われている。死後においても司馬の影響力は大きく、礼賛する余り持論を司馬と絡めて預言者のように扱われることもある[7]。
一方で司馬の作り上げた歴史観は、しばしば「司馬史観」として論争の対象となってきた(ただし、司馬自身は「史観」という考え方自体に、そもそも、否定的な見解を述べており、この論争は、司馬の作品をどう解釈するかと言う論争の側面が強い)。批判側の観点は幾つかに分けられる。
歴史観は必然的に思想的な性格を持つ物だが、この点からの批判としては近代合理主義への偏重が一定の限界を与えていたという指摘が代表的である。例えば、同時代の指導者の観点からの把握に重きを置き、民衆の観点や通時的な観点からの把握を怠っている(歴史の切り取りかたの問題)、明治期の戦争を肯定的に描きながら昭和期の戦争を否定的に描いている(いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の分断)、各時期代の描写が前記の偏向(例えば昭和期の日本軍に対する憎悪)により客観的な分析が欠如している、合理主義への解釈を巡って対立がある、などである。また、司馬が称揚した合理主義自体も西洋哲学の中で発展を遂げる過程で解釈の多様化が起こり、帝国主義、ナチズム、共産主義、或いは過度の資本主義などと関係づけ、その行き過ぎに対して批判がなされることも多い[8]。司馬に限らず提唱者の唱える『合理主義』という言葉がどのような考えを指し、提唱者が言葉通り実践しているかについては慎重に議論する必要があり、批判の中で触れられる事もある。
但し、「明るい明治」は司馬自身の作家としての研究・調査による合理主義からくるもの、「暗い昭和」は自身が徴兵された自己の体験による実証主義によるものであり、作家として個人の主観が影響するのは当然であり、読者も作家のバックグラウンドを読み取った上で作品を読み取る必要がある。
また、歴史教科書問題などの歴史認識をめぐる論争において、自由主義史観派が司馬の歴史観に依拠していると主張していることから、左右を問わず、自由主義史観を批判する立場から上記の諸点を強く批判することがある。中村政則、佐高信などの革新派の流れを汲む者からは「戦争、植民地支配を美化・正当化している」と批判され、西部邁、小林よしのりなどの一部の保守派(主に反米保守派)からは「大東亜戦争を否定する自虐史観」「ポチ保守の史観」と批判される[9]。思想的、史観的な面からの見直しについては新聞でも紹介した例がある[10]。
他に、司馬が、東アジアあるいはヨーロッパの文化的マイノリティに一貫して関心を持ち続けてきたことを評価しながら、彼らを作品中にとりあげたり論じた際に、「彼らを文明化・支配した帝国側」の意味について深く分析せずにやりすごしている、という批判もある[11]。
より学究的な立場からは実証性の面からも批判されることがある。特定の事実への重きを置いた記述に留まるならば一応は史実の範疇に留まるが、司馬の場合は実証性を謳っているにも関わらず、小説の一部に創作した場面が存在する事、資料の誤読や資料批判の不徹底等による事実誤認などが問題点として批判者より指摘される(思想的批判と合せて書かれた場合、評論が評価の対象となった場合には歴史修正主義の亜種と批判される)。この立場の代表的論客は別宮暖朗、福井雄三などである。また、一坂太郎は司馬の価値観を基本的には否定してないが、実証性については検討を行っている。また、坂本竜馬の幕末維新史での過剰評価や、乃木希典に対する否定的な記述など、政治家以外の歴史上の人物に対する評価でも、司馬の小説によって一般に広まったと認識されている例がある。
作品中に出典を記さないことに対する批判もある。これは実証性を謳う姿勢に合致していない。すべてを根本資料から調べ上げたように錯覚を生じさせるような表現もみられる。
戦史研究者にも創作物の価値を認めつつ、特定個人の歴史観を事実であるかのように錯覚させる手法の危険性を指摘し、司馬と絡めて述べる者などがいる[12]。後年設定考証のレベルの高さを前面に売り出された一部の架空戦記ほどではないにせよ、真実性については同質の問題を抱えていると言える(なお、架空戦記のヒットメーカーとなり、代表的存在となった佐藤大輔は、作品内に司馬を登場させ、記述法の類似性や乃木等の歴史上の人物への否定的評価で司馬を髣髴とさせる表現があり、司馬の歴史観を継承した影響が高梨俊一などにより指摘されている)。
これに対して反論側からは、歴史という素材から虚構の小説を生み出すことは、ある程度作者に許される裁量権の問題であって、的を射ているとはいいがたいという指摘がなされる。反論を行なう者は、司馬(ないし小説家)の社会的影響力については触れないか、受け手の問題であるとする場合が多い。また、「司馬史観」という名称は司馬自身が名付けたものではないという指摘もある。一方、司馬は晩年を中心に歴史評論的な性格の強いルポルタージュ、エッセイを多く発表しインタビューにも応じてもいる。小説に加えてこれらが付加されたことで司馬の歴史観は小説の枠を越えて読者に提供された。小説のドラマ化だけではなく「街道をゆく」のように映像化された例もある。また作品の多くは現在でも容易に入手が可能である。このように司馬の歴史への考え方には一貫性があり、小説以外の形でも表出され、ひとつの史観として確立され、広汎に敷衍していることは事実であろう。
また、司馬に限ったことではないが、たとえ実証性の高さを売り物にしていたとしても、時事評論などは別として小説のような創作物については“歴史の真実を記述した史書”と考えることは適切とは(通常は)言えない。
これは歴史学では基礎的な認識として教育されることである。なお、司馬は自身の著作を、「フィクションである」とはっきり言明している。司馬だけではなく、たとえば『宮本武蔵』を著した吉川英治も同様のことを言っているが、一方で出版社や司馬を評価する者までが「司馬史観」という言葉を敷衍させているという事実もある[13]。
従って司馬史観という言葉を利用しているのは批判派だけではない。フィクションの内容を歴史の真実であるかのように読者が錯覚してしまうのは、それだけ司馬の作家としての手腕が優れていることの証明でもあるとも言えるが、上記のように批判側にとってはその錯覚させる手腕自体が問題となる。ただし、「史実」と「史実をもとに誇張や想像を織り交ぜたフィクション」を切り分けることは、ある程度知的な論議をしたい読者であれば、必要である。
このように、司馬に関する議論の場合には、受容の様態も対象となる。擁護派は司馬の言葉から教訓を汲み取ろうとする傾向があり、批判派は神格化を行っている者を信者のように捉えての批判は、司馬本人への賛否に関わらずなされる。
話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集が数多くある。交友関係も広く、池波正太郎をはじめ、桑原武夫、井上靖、上田正昭、ドナルド・キーン、萩原延壽、貝塚茂樹・湯川秀樹兄弟など多岐にわたった。池波は小説家として共に駆け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の「鬼平犯科帳」など愛読していたという。また、小説家としての初期に励ましを受けていたのは海音寺潮五郎で、海音寺の励ましが無ければ小説家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。晩年は宮城谷昌光を高く評価し、宮城谷から送られてくる作品を読んで手紙などで励ましつづけ、没する間際には宮城谷に「どうしても会っておきたい」と述べて会談を行っている。またアニメ作家宮崎駿の作品、特に「ルパン三世 カリオストロの城」「となりのトトロ」を高く評価し、宮崎との対談もしている。
また、直木賞選考委員だった際に、なんども候補になったSF作家・広瀬正の作品を、候補になるたびに高く評価したが、他の選考委員の賛成を得られず、授賞させえなかった。のちに、早世した広瀬の作品集がまとめられた際、『広瀬正・小説全集2 ツィス』の解説を書いた。 どれほど広瀬を評価し、当時の審査員に呆れていたかがわかる文に直木賞選後の司馬の評がある。一部抜粋すると、 「一読者として、一番面白かったのは、広瀬正氏の『マイナス・ゼロ』であった。SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙まされる姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」と評している。 この評は「マイナス・ゼロ」の帯にも記載されている。
芸術家、岡本太郎が万博協会から大阪万博プロデューサーへの就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデューサーを引きうけるべきか相談。司馬は「ぜひやったほうがいい。」と岡本を励ました。[14]
速読家としても知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。
資料集めへの執念はすさまじく、生涯に何千万円単位という巨費を投じて買い集めていた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が古本屋業界から払底したという逸話があり、神田神保町の古書店街に軽トラックでやって来て、本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読し、それらをすべて荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆の際には、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古本屋に行っても資料がなかったという逸話も残る。
名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。
私生活の面では中村玉緒のファンで、そのお辞儀の美しさに見とれたという。舞台『竜馬がゆく』で萬屋錦之介と共演した。また錦之介は竜馬を生涯の持ち役とした。
一方でスポーツにはあまり関心がなかったらしい。大阪市のアパート(西長堀アパート:現在で言えば最新の高層マンションのような高級物件であり、所謂下駄履きアパートではない)に住んでいた頃、当時の南海ホークスの主砲野村克也が同じアパートにいたが、野村の顔も名前も知らなかったので、昼過ぎに家を出て深夜に帰ってくる大男を胡乱な目で見ていたという。ただし大相撲は好きで、愛好するあまり「伝統や神聖さを考えれば、大相撲に八百長があるはずがない」と主張していた[要出典]。
『噂の眞相』(1998年6月号)は、先妻との離婚の顛末について、司馬の父親・是定(記事では父親の名前は伏せている)の嫁いびりが原因としている。是定は、なかなか子を産まない司馬の先妻を「3年孕まずは猿と一緒」と非難し、子が生まれたあとも虐待は変わらなかった。出産後、母乳が出ないので薬局のミルクを使おうとすると、是定は「商品に手を出すな、欲しいなら買え」と6掛けで売りつけたという。先妻はストレスのあまり体調を崩し、離婚に追い込まれるが、是定は「うちの跡取りだ」と親権を主張して譲らず、我が子とも離ればなれにされてしまった。しかし司馬はこの間黙ってみているだけで、先妻に何を言われても「仕事が忙しいから」と取り合わなかったという。さらに、後年司馬がみどりとの再婚を迷うと、先妻に「お前が相手を見て決めてくれないか」と連絡して、二人のデート現場をこっそり観察させた。これには先妻も、完全に司馬との関係を絶つ決意をしたという。
また、長男に対しても、前述のように司馬は手元に置いて育てなかった。長男は結婚するまで祖父母の元で暮らし、司馬の家に行くのは、是定にいわれて生活費を受け取りに行く時だけであった。そのため長男は「司馬の息子」と呼ばれることを嫌ったが、司馬はそれを聞くと「最近、あいつが俺の息子といわれるのを嫌ってるみたいなんや」と不思議そうな顔をしたという[15]。
元台湾総統の李登輝とは学徒出陣の同期であり、思想も似通っていたことから懇意であった。『台湾紀行』の末尾に対談がある。
執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったような趣味は生涯持たなかったが、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは現在でも遺族が保存している。
古巣産経新聞社をはじめとするフジサンケイグループの鹿内家支配を「企業の私物化だ」と批判しており、羽佐間重彰(当時産経新聞社社長)・日枝久(当時フジテレビジョン社長、産経新聞社取締役)らによる鹿内宏明会長解任を喜び、羽佐間・日枝に色紙を贈ったという[16]。
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| 順位 | 作品 | 部数 |
|---|---|---|
| 1位 | 竜馬がゆく | 2125万部 |
| 2位 | 坂の上の雲 | 1475万部 |
| 3位 | 翔ぶが如く | 1070万部 |
| 4位 | 街道をゆく | 1051万部 |
| 5位 | 国盗り物語 | 674万部 |
| 6位 | 項羽と劉邦 | 669万部 |
| 7位 | 関ヶ原 | 520万部 |
| 8位 | 菜の花の沖 | 475万部 |
| 9位 | 花神 | 453万部 |
| 10位 | 世に棲む日日 | 445万部 |
| 11位 | 功名が辻 | 395万部 |
| 12位 | 播磨灘物語 | 392万部 |
| 13位 | この国のかたち | 365万部 |
| 14位 | 峠 | 322万部 |
| 15位 | 城塞 | 307万部 |
| 16位 | 新史太閤記 | 262万部 |
| 17位 | 義経 | 240万部 |
| 18位 | 箱根の坂 | 238万部 |
| 19位 | 胡蝶の夢 | 231万部 |
| 20位 | 最後の将軍 | 220万部 |
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