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埼玉西武ライオンズ | 百科事典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

埼玉西武ライオンズ
会社名 株式会社西武ライオンズ
創設年度 1950年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名
本拠地
西武ドーム
(2007年)
収容人員 33,921人(西武ドーム)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
なし
獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)
2008
日本一(13回)
1956 | 1957 | 1958 | 1982 | 1983 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 2004 | 2008
リーグ優勝(21回)
1954 | 1956 | 1957 | 1958 | 1963 | 1982 | 1983 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1997 | 1998 | 2002 | 2004 | 2008
成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
2008
日本シリーズ出場(21回)(太字は勝利した年)
1954 | 1956 | 1957 | 1958 | 1963 | 1982 | 1983 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1997 | 1998 | 2002 | 2004 | 2008
クライマックスシリーズ(1回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
1勝0敗
2008
プレーオフ(2004-2006)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
1勝2敗
2004 | 2005 | 2006
プレーオフ(前後期制)(1回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1勝0敗
1982
球団組織
オーナー 後藤高志西武ホールディングス代表取締役社長
運営母体 西武ホールディングス
西武鉄道配下)
監督 渡辺久信
株式会社西武ライオンズ
SEIBU LIONS
種類 株式会社
略称 埼玉西武ライオンズ、西武、埼玉西武、ライオンズ
本社所在地 〒359-1189
埼玉県所沢市上山口2135番地
(登記上本店は、東京都豊島区南池袋一丁目16-15)
設立 1950年1月28日(※1.)
業種 サービス業
事業内容 プロ野球球団運営 ほか
代表者 オーナー 後藤高志
代表取締役社長 小林信次
資本金 1億円(2009年3月31日現在)
従業員数 79人(2009年3月31日現在)
決算期 毎年3月31日
主要株主 西武鉄道 100%(※2.)
関係する人物 西亦次郎中村長芳堤義明坂井保之根本陸夫
外部リンク http://www.seibulions.jp/
特記事項:※1.西鉄野球株式会社としての設立登記日。1978年10月25日に福岡野球株式会社から現商号に変更。
※2.西武ホールディングス連結子会社である。
  

埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、Saitama Seibu Lions)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。

埼玉県保護地域とし、同県所沢市にある西武ドーム専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)は隣接する西武第二球場を本拠地としている。

目次

球団の歴史

福岡時代

西鉄時代

1949年暮れに起きた、日本野球連盟1リーグ体制からの2リーグへの分裂と共に福岡県福岡市西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)として創立。11月26日に発足したパ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)。経営母体は西日本鉄道(同社は戦前西鉄軍を経営していたが、西鉄軍は1943年に解散したため、現在のライオンズとは直接の関係はない)。戦後すぐの球団再建が認められず、2リーグ分裂まで待たねばならなかった。

1950年1月28日、運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記(この日を球団創立日とする文献も存在する[1])。

西日本鉄道初代社長の村上巧児が「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[2]、結成することとなった。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チーム[3]から初代監督となる宮崎要を始め大津守深見安博河野昭修塚本悦郎ら、八幡製鉄鬼頭政一ら、別府星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で巨人の主戦投手であった川崎徳次福岡県出身で前年度南海で20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。

1951年1月30日、同じく福岡市を本拠地としていたセ・リーグ西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治日比野武が加入。

1952年、シーズン途中に、契約が難航していた東急の大スター大下弘を深見安博とのトレードで獲得。

1954年は2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(中西太(31本)・関口清治(27本)・大下弘(22本))を記録する等、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録し、チーム結成以来初のリーグ優勝を飾る。

1956年1958年三原脩監督の下日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。

1959年中西太が手首腱鞘炎で不調だったこともあって4位に終わり、三原監督が辞任。川崎徳次が監督に就任する。

1961年稲尾和久が日本記録となる42勝をマークするも、2年連続3位に終わり、川崎監督が辞任。シーズン終了後、中西太が選手兼任監督に就任。また、豊田泰光が助監督兼任、稲尾和久が投手コーチ兼任となる。豊田はこの年限りで退団、国鉄へ金銭トレードにより移籍する。

1963年は、中西監督の下、豊田のトレードマネーで獲得したロイウイルソンバーマの3外国人の活躍により、南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終戦で奇跡の大逆転優勝を飾る。また、西鉄時代及び福岡本拠地時代としては最後のリーグ優勝となった。

1964年稲尾和久の故障もあり5位に低迷するが、その後新人でいきなり20勝を挙げエースとなった池永正明や、外国人選手の活躍により、1966年1967年までAクラスを確保する。

1969年2年連続Bクラスの責任を取って中西監督が辞任。さらに「黒い霧事件」が発覚し翌1970年までにかけて池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により戦力が大幅にダウン。1970年から1972年まで3年連続最下位となって観客動員数も減少し経営が悪化。本業である交通事業の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。

太平洋クラブ時代

1972年11月にロッテオリオンズ中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。このためペプシへの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。

クラウンライター時代

1976年10月12日に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズClown-Lighter Lions。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す(10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。

所沢時代

根本監督時代

パ・リーグ優勝 チャンピオンフラッグ
1983年-1985年-1986年-1987年
パ・リーグ優勝 チャンピオンフラッグ
1997年-1998年-2002年

1978年レギュラーシーズン終了後の10月12日、球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。国土計画堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズSeibu Lions)となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。

10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋サンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。

1979年に西武ライオンズとして最初のシーズンがスタート。1979年は前期は春季キャンプでの調整失敗もあり開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で、通算成績も最下位であった。

1980年は前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。

1981年は前期は終盤まで優勝を争うも惜しくもロッテに敗れ2位。だが後期は失速して5位に沈む。通算では4位。このシーズン限りで根本監督が退任。

1月7日、合宿所完成。

広岡監督時代

1982年はこの年より就任した広岡達朗監督の下、チームの改革を実施。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤躓くと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムファイターズの抑え投手、江夏豊を見事に攻略、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでもセリーグ優勝チームの中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、24年ぶりの日本一に輝く。

1983年は序盤から首位を独走、86勝40敗4分の圧倒的な成績で2年連続リーグ優勝、日本シリーズでも歴史に残る大激戦の末読売ジャイアンツを4勝3敗で下し、2年連続日本一。

1984年は田淵幸一や山崎裕之など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷、結局3位に終わる。

1985年は5年目の秋山幸二がホームラン王を争い、投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れる。シーズン終了後、広岡監督が契約年数を1年残して辞任する。広岡監督の後任には1982年から1984年まで広岡の下、ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任。

森監督時代

1986年からの森祇晶(昌彦より改名)監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ清原和博、石毛宏典、伊東勤辻発彦平野謙など)が揃い、特に渡辺久信最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年ヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。

1986年はドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでも広島東洋カープを1引き分けの後の3連敗から4連勝して逆転日本一。

1986年8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。

1987年は序盤は清原和博の不振、辻発彦や渡辺久信など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは第6戦の伝説の走塁などで巨人を圧倒、2年連続日本一[4]

1988年は終盤まで首位を快走するが近鉄の猛追にあう。近鉄が10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝するとリーグ4連覇を逃す大ピンチであったが、近鉄がダブルヘッダー第2試合を引き分けたことにより4連覇を達成。日本シリーズでは4勝1敗と中日を圧倒し、3年連続日本一。

1989年は序盤から低迷、7月途中まで3連勝すらない状況であった。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、リーグ5連覇を逃す。

1990年は序盤から圧倒的な強さで首位を独走、危なかったのは6月に8連敗したのみという安定感ある戦いでリーグ優勝を奪回。日本シリーズでも巨人を4連勝で下す。

1991年は開幕から8連勝を果たす。しかし、中盤からは調子を上げてきた近鉄との激しい一騎打ちとなる。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでも広島を破る。

1992年は6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでもヤクルトを破り3年連続日本一。2008年終了現在、日本シリーズの連覇はこの年の西武以来出ていない。

1993年はオレステス・デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし、日本シリーズではヤクルトに前年の雪辱を果たされる。オフには9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男内山智之佐々木誠橋本武広村田勝喜の3対3の交換)。

1994年はオリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが地力と経験に勝る西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退。

東尾監督時代

1995年東尾修監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。

1997年には松井稼頭央髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。

1998年日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。

1999年には西武ドームが完成、松坂大輔人気などもあり観客動員数増加、テレビ中継増加と世間の注目を集めるが、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。

伊原監督時代

2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。

2002年、伊原監督就任1年目は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。

2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。

伊東監督時代

2007年ファン感謝の集い・渡辺監督の就任挨拶風景。(西武ドーム)

2004年に伊東監督が就任。レギュラーシーズンは総合2位であったが、この年導入されたパ・リーグプレーオフでプレーオフ制覇チームがリーグ優勝となる取り決めにより、3位北海道日本ハムファイターズと1位福岡ダイエーホークスを接戦の末破り2年ぶり20回目(所沢移転後16回目)の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。

シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。

2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。

2006年ファイターズとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずかゲーム差1.0差で2位に終わる。プレーオフでも、3位の福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。

2007年交流戦で10連敗を記録するなどして低迷。9月26日、対千葉ロッテ戦に敗れた時点で26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、結局最下位オリックスから2.5ゲーム差の5位に終わる。シーズン最終戦の直前、伊東監督は不振の責任を取り辞意表明した。

渡辺監督時代

2008年は1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新。その結果、打撃力が大幅にアップし、渡辺久信にNo Limit打線と名付けられた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武となって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。

2008年クライマックスシリーズでは、第1ステージを勝ち上がった北海道日本ハムファイターズと第2ステージにて対戦。アドバンテージの1勝を含む5試合4勝2敗でシリーズを制覇し、2004年以来の日本シリーズ出場を決めた。そして迎えた巨人との日本シリーズでは、第5戦終了時点では2勝3敗と相手に日本一へのリーチを掛けられてしまったものの、第6戦を岸孝之のロングリリーフで捥ぎ取り、最終第7戦まで縺れ込む展開となった。その最終第7戦は平尾博嗣の決勝適時打などで逆転勝ちし、4勝3敗で4年ぶりの日本一に輝いた。
アジアシリーズでは予選でSKワイバーンズに1点差で敗れたものの統一セブンイレブン・ライオンズ天津ライオンズに勝利。失点率の差で1位で予選通過すると、決勝戦の対統一戦では9回裏に四球で出た石井義人佐藤友亮のセンター前ヒットで統一の緩慢な守備の隙を突き一塁からホームイン。日本勢4連覇を果たした。

2009年1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。また、西武ドームのホームベンチが3塁側に変更されることも2008年12月26日のプレスリリースにて発表されている。なお、本拠地球場において3塁側をホームとするチームは北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスに続き、3チーム目だが前述の2チームは地方遠征時は1塁側を使用する場合もある。埼玉西武は大宮でのゲームでも3塁側を使用するので、全てのホームゲームを3塁側で行うこととなる。(2010年は埼玉県内の2球場のほかハードオフエコスタジアム新潟上毛新聞敷島球場でも主催試合を行うがこれらの球場でホームベンチがどちらになるかは未定。)

2009年1月28日、同年1月1日に変更となった新ペットマーク、チームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。基本デザインは「西鉄」時代のユニフォームデザインを踏襲しており、白地にレジェンド・ブルーで、ホーム用には「L」、ビジター用には「Lions」と胸にチームネーム・ロゴで描かれている。このユニフォームはキャンプ・オープン戦では使用されず、4月の公式戦から使用されている。
2009年のペナントレースは昨シーズンの守護神であったグラマンの離脱などにより、中継ぎ・抑え投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなる。Bクラスに終わったが、渡辺監督は球団と2011年までの2年契約を結んだ。ドラフト会議で花巻東高校菊池雄星との交渉権を獲得。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 21回
    • (1954年、1956年~1958年、1963年、1982年~1983年、1985年~1988年、1990年~1994年、1997年~1998年、2002年、2004年、2008年)
  • 日本一 13回
    • (1956年~1958年、1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年、2004年、2008年)
  • 前期優勝 1回
    • (1982年前期)
  • Aクラス 41回
    • (1951年~1952年、1954年~1958年、1960年~1963年、1965年~1967年、1975年、1982年~2006年、2008年)
  • Bクラス 19回
    • (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年~1974年、1976年~1981年、2007年、2009年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年~2006年)
  • 連続Bクラス最長記録 7年(1968年~1974年)
  • 最多勝 96勝(1956年)
  • 最多敗 84敗(1971年)
  • 最多引分 14分(1959年、1987年)
  • 最高勝率 .683(1983年)
  • 最低勝率 .311(1971年)

※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで日本ハム、ダイエーと連破して優勝。

その他の記録

  • 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1989年)
  • 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)
  • 最多本塁打 219本(1980年)
  • 最少本塁打 63本(1951年)
  • 最高打率 .281(1986年、1997年)
  • 最低打率 .222(1967年)
  • 最高防御率 1.87(1956年)
  • 最低防御率 4.60(1979年)

チーム特徴

  • 西鉄時代は三原・川崎徳次以外はチームの出身者が監督を務めた。太平洋・クラウン時代・西武時代は長らく外様監督が続いたが、1995年の東尾修以降は、伊原春樹伊東勤渡辺久信とチームの出身者の監督が続いている。
  • 西鉄黄金期の三原時代はトレードに消極的だった(ただし、広島に移籍した大和田明近鉄に移籍した大津守のように、このままチームにいても出場機会に恵まれないと思われる選手を他球団に移籍させることはあった)のに対し、西武黄金期の根本・広岡・森時代は大型トレードを敢行。対照的な手法で黄金時代を作り上げた。

福岡時代

  • 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。
  • 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる[5]
  • 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」はライオン(獅子)から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。
  • 1953年には中西太平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、推定160mとされる大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。
  • 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながら、この雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
  • 黒い霧事件以降は成績も低迷し、経営も逼迫していた。練習では球場外に飛んだファールボールを拾ってきては汚れを消しゴムで消して使い回すという有様だった。当時、巨人から移籍してきた関本四十四が若手の使っているバスタオルがぼろぼろなので自分が持っているものをあげると皆喜んでいたと述懐している。そんな状態だったので所沢に移転してエアコン完備の西武球場のベンチに入った選手は異様に驚いたという。

所沢時代

  • 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深い手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。肖像権料は1億円という(しかし作者の手塚は生前、あの球団旗などに採用されたキャラクターは実はレオではなく、父親のパンジャであったと語っている)。球団マスコットとしてもレオが(人型で)登場。マスコットには他に女性キャラのライナがいる。共に背番号無し(ユニフォームのスポンサー・ナイキのロゴ)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)。
  • このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されていた(SFレオカード)。
  • 西武ライオンズが福岡本拠地時代をどう扱うかは、2008年を境に激変した。
    • 所沢移転後、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。球団の公式記録は全て所沢移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった[6]。また、福岡時代に所属したが、所沢移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手は球団OBと認められず、顕彰や始球式などは行われなかった[7]。そのため福岡時代のファンの反発は強く、福岡へのプロ野球チーム再誘致運動の末に1989年に実現した南海ホークスの福岡移転後は、福岡のライオンズファンがホークスへ多く流出した。西武がこのように歴史の断絶を強調した背景には黒い霧事件で西鉄に残った悪印象と訣別したい意図が存在するのではないかとの指摘もあった。
    • 2008年からは公式ウェブサイト内年表においても西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加されている。こうした姿勢の変化には堤義明オーナーの退任による経営陣の一新、黒い霧事件における池永正明の永久追放処分が2005年に解かれたこと[8]、西鉄・太平洋時代の功労者である稲尾和久の死去(2007年)、さらには福岡時代より所沢移転後の年数が長期になった事などが関係していると見られる。
    • 2008年は西武球団創設(所沢移転)30周年と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6-8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光による監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。
    • 2008年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。
  • 2003年までのホーム用で使用されていたユニフォームによる白地に緑・青・赤のストライプを配した塗装は「ライオンズカラー」と呼ばれ、ユニフォームの変わった現在でも西武4000系電車西武8500系電車や西武グループに所属する西武バス伊豆箱根鉄道近江鉄道のバスなど様々な場所で使用されている。このユニフォームは2009年の「ライオンズ・クラシック2009」企画で再び着用された。
  • 1982年に西武としてリーグ初優勝以来、2006年まで日本プロ野球新記録となる25年連続Aクラス入りを達成した。それ以前、黒い霧事件が発生する前の1968年から西武発足3年目だった1981年の14シーズンではAクラスが太平洋時代の1975年に1度(3位)しかないことからいっても、1982年の優勝は大きな転機となったといえる。
  • パ・リーグでは唯一、埼玉西武ライオンズ(西武ライオンズ時代も含む)としてセ・リーグに現存する6球団全てと日本選手権シリーズで対戦している[9]。そのうち、対戦順に中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ広島東洋カープ東京ヤクルトスワローズ(当時はヤクルトスワローズ)の4球団には勝利したが、広島以外の5球団には敗北した経験がある。
  • 過去1人も育成選手制度を使用していない。していないのは西武と北海道日本ハムファイターズのみである。

ユニフォーム

ユニフォームの変遷

福岡時代

西鉄時代
  • 1950年~1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」変わった以外、変更点はない。
  • 1951年~1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
    • 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。
  • 1952年~1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の飾り文字が登場。
  • 1954年~1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは'60〜'61年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。
  • 1962年1965年 - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。
  • 1966年1970年 - ユニフォームにオレンジが登場(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。また、日本プロ野球としては1964年大洋に次ぐ背ネームが採用された。
    • 1968年途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり左袖にワッペンが装着。
    • 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後も、練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた榎本喜八がビジター用を着ている写真が残っている[10])。
    • 1970年には左袖に1本足を突き出すライオンのイラストワッペンが装着。ビジター用がブルーグレーに変更される。
  • 1971年1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。同時に西鉄最後のユニフォームとなった。
太平洋クラブ時代
  • 1973年1975年 - ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〔上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〕)が登場。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。
  • 1976年 - 最初で最後のアメフト風ユニフォーム。ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用。帽子マークは「L」と「T」の組み合わせ文字で、胸の真ん中に大きく番号が入った。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。
クラウンライター時代
  • 1977年1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も「C」と「L」の組み合わせ文字となって、白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。なお右肩には引き続き太平洋クラブのマークが入る。同時に福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなる。

所沢時代

  • 1979年2003年 - 球団名が「西武ライオンズ」となり細谷巖によるデザインに一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは2003年まで使用された。
    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。
    • 帽子は緑の楕円の中に手塚治虫テザインのレオマークがつき、下にLionsのロゴが刺繍される。ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)にSEIBUのロゴが入る。
    • 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
      • ただし背番号「1」の書体については、秋山幸二のみ本人の希望で「_」の付いた書体が使用された。
    • スパイクはつま先、踵部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。紐は青。
      • ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖に西武百貨店のマーク(これもライトブルー)が入る。
      • ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖にはLionsのロゴ(これも白)が入った。
        • 1980年より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。
          • 1981年に入団した石毛宏典は、全身ブルーのビジター用をパジャマみたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からは「ビジター用の方が強そうに見える」という感想を聞いている[11]というエピソードが存在する。
        • 1990年より、ユニフォームのボタンが、乳白色半透明から地色と同色のボタン(製造メーカーデサントのロゴが入る)になる。
        • 2001年より、ホーム用がデサント社から、ナイキ社の製造になり、左胸にナイキのスウォッシュマークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)。
        • 2002年より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになり、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。
  • 1996年からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルーラインになる。
  • 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキ社の製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。
  • 2004年2008年 - 伊東勤監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSになる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。
    • 2005年よりプライド・ロゴの星の数が9個となる(前年度日本一になったため)。
    • 2008年は所沢移転30周年記念ロゴが右胸に入る。
  • 2009年~ - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。また、「Lions」のロゴも一新されることが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。ホーム用は白地に紺の前掛けライン。左胸に「L」のイニシャルが付く。ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsと同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。
    • ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。

二軍のユニフォーム

  • 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。
  • 2005年~2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークが同社のマークに変更。ロゴもINVOICEとなる(書体は従来と同じ)。
  • 2007年 - グッドウィルに変更。ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。帽子マークは同社のものに変更。

期間限定ユニフォーム

  • 2007年度は夏季特別企画として、7月10日から8月30日に主催ホームゲームで、試合日によりオリジナルで製作した特別ユニフォームと併用する形で、ビジターユニフォームの復刻版が登場した。
  • 2008年度は交流戦限定ユニフォームが登場したほか、6月〜8月の主催試合と7月15、16日に「アサヒスーパードライ ライオンズ・クラシック」として西鉄ライオンズ時代のユニフォームの復刻版が登場した。当時の親会社である西日本鉄道も後援として参加している。
    • 2007、2008年度の復刻版のいずれにも左胸にスウォッシュマークが入った。このマークおよび、ヘルメットのスポンサー名は、セ・リーグのチームが主催の試合の際は、はずされる。

ユニフォームのスポンサー

応援スタイル

鳴り物応援」および「チャンステーマ」も参照

  • ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。
  • 得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ〜サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「やったー」×3、「1・2・3・オー」と続く。(1992年開始以来変更無し)
  • 勝利時には炭坑節が演奏される。
  • 「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続ける。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。
  • 応援のリードにバスドラムが用いられ、西武ドーム内で反響するため威圧感を与えている。
  • 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合で選手の応援歌が異なっている為、2005年に統一されたとの発表があったが、福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。
  • 福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を流用、又は、1990年代の地方専用応援歌を使用している。
  • 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスでの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドーム細川亨がチャンスで打席に立つと、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともある。2008年時点ではチャンステーマとして片岡易之及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、クレイグ・ブラゼルの打席でアレックス・カブレラの応援歌、ヒラム・ボカチカの打席でホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。
  • 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソンドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。
  • 主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。
  • 5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏される。
  • 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際等に使用される。
  • アウトテーマは原則的に使用されるが、バントアウトなどアウトを取っても相手が進塁した場合は使用しない。アウトが奪三振の場合はアウトテーマの後に「いいぞ、いいぞ、○○(投手名)」と続ける。以前は三振以外のアウトの時もアウトの打球を処理した選手に対し(例-ショートゴロならショートを守っている選手にと言う具合に)このコールをやっていたこともある。
  • 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばすが、ラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えている。
  • 平尾博嗣の応援歌は、本人は気に入っていないことが、ラジオ番組での赤田将吾選手の発言により発覚している。応援歌の一つとして定着してきていたが、2008年7月19日より新しい応援歌に変更された。
  • 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の銀仁朗以外に使われることが無く、2006年交流戦頃にそのまま銀仁朗の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。
  • 福応連が応援をリードする試合では試合前の1-9は行われず、その日の試合で応援を行う加盟団体紹介を行っている。

永久欠番

歴代の永久欠番

準永久欠番

なし。

過去の準永久欠番

  • 27:伊東勤
    2004年〜2006年の3年間欠番。
  • 32:ミゲール・デルトロ
    メキシコ帰国直後の2001年10月6日交通事故死。翌2002年の1年間欠番。
  • 59:板沢峰生
    1980年12月3日急性心不全で死去。翌1981年から1989年までの9年間欠番。

歴代本拠地

西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。

なお、西武ライオンズは本拠地の西武ライオンズ球場・西武ドームでの試合開催率が高く[12]、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982-86年と1989-93年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を解禁した。特に2000年からは長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたが、2009年は実施されなかった。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。

球団事務所(所沢市・2007年撮影)
備考

ライオンズの本拠地は現在埼玉県所沢市であり、都道府県庁所在地(埼玉県の県庁所在地はさいたま市)でも政令指定都市でもない市におかれている。これはパ・リーグ6球団の中でライオンズだけであり、セ・リーグでも東京都都心23特別区に本拠地を置く巨人文京区)と東京ヤクルト新宿区、ただし同区は東京都庁所在区)を除くと阪神兵庫県西宮市)だけである。

2005年の東北楽天ゴールデンイーグルスのパ・リーグ加盟により、同年および2006年のパ・リーグ東西対抗では関東の球団ながら西軍とされた。これは、同じ関東の球団の千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉県千葉市よりも西に位置しているためである。

また、西武ドームの敷地内には二軍の本拠地である西武第二球場、屋内練習場、合宿所「若獅子寮」などの球団施設がまとまって立地している他、球団事務所もドームに隣接して設けられている(1986年8月4日までは東京都豊島区東池袋サンシャイン60であった)。このため一・二軍間の選手入れ替えが行いやすく、また合宿所住まいの選手は試合終了後すぐ練習に取り掛かれるなど利便性が高い。本拠地球場の敷地内に球団施設がまとまって立地しているケースは他球団では例がなく、当然ながら一軍とファームの本拠地間の距離は12球団の中で最も短い。また、鉄道バス等の公共交通機関自動車等を利用せずに一軍・二軍の本拠地間をすぐに行き来できるのは西武以外の11球団では阪神タイガースのみである。

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約解除

歴代の球団歌

「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「Let's Go Lions」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。

主なキャンプ地

過去のキャンプ地

チームスローガン

広岡監督時代

  • 1982年:新風
  • 1983年:闘球
  • 1984年:鋭球
  • 1985年:爽球

森監督時代

  • 1986年:飛躍
  • 1987年:前進
  • 1988年:鍛える
  • 1989年:魅せる
  • 1990年:燃えて
  • 1991年:雄々しく
  • 1992年:初心
  • 1993年:新たに
  • 1994年:チャレンジ

東尾監督時代

  • 1995年:感動のドラマがある
  • 1996年:熱く、激しい感動。
  • 1997年:Hit!Foot!Get!
  • 1998年:夢へHit!Foot!Get!
  • 1999年:栄光へ、Hit!Foot!Get!
  • 2000年:Hit!Foot!Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。
  • 2001年:Hit!Foot!Get!栄光への挑戦

伊原監督時代

  • 2002年:全力 To The Best
  • 2003年:栄光へ全力!

伊東監督時代

  • 2004年:挑戦はじまる。
  • 2005年:挑戦ふたたび。
  • 2006年:挑戦あるのみ
  • 2007年:心を、ひとつに。力を、ひとつに。

渡辺監督時代

  • 2008年:No Limit!
  • 2009年:No Limit!
  • 2010年:No Limit!2010 逆襲の獅子

マスコット

手塚治虫の漫画、ジャングル大帝の主人公。デザイン原形は、父親のパンジャである。
同じく手塚治虫のデザイン。
当時オーナーの堤の提案で、行った所に畑が見える西武線沿線に虫プロダクションを置いていた手塚の意思が合致しての採用となった。もしこれが叶わなければ、球団名も「ライオンズ」から国鉄スワローズの様に、「1番早い車両を名前に使おう」と「西武レッドアローズ」になっていたかもしれない、という[13]
埼玉県のマスコット。祝勝会等で登場する。

キーワード

オリオンズとの遺恨

詳細は「ライオンズとオリオンズの遺恨」を参照

埼玉西武ライオンズと千葉ロッテマリーンズとは、前身の西鉄・毎日時代から1952年平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。

戦後初の外地遠征

1961年5月21日東映フライヤーズとの試合は戦後初の海外遠征試合としてアメリカの占領下の沖縄1972年に日本本土復帰)で初めて開かれた。

14.5ゲーム差を大逆転

1963年の西鉄は前半戦、南海ホークスに14.5ゲームの大差を付けられ3位に甘んじていたが、このシーズンのペナントレースは150試合という大リーグ並みの試合日程で行われたため、逆転の可能性が充分にあった。

後半戦に入って、西鉄の猛追がスタート。一旦4位に転落するもゲーム差はみるみるうちに縮まって10月8日の時点で80勝57敗3分け(勝率.584)で首位に並んだ。その後も2チームのデッドヒートが続き、南海は10月17日、85勝61敗4分け(勝率.582)で全スケジュールを消化。後は西鉄の残り4試合に優勝が委ねられることと成った。

西鉄の残り4試合は全てホーム・平和台での近鉄戦。10月19日と20日にそれぞれダブルヘッダーによる4連戦をこなさなければいけない。しかも逆転優勝をするには4連勝以外になく、3勝1敗なら南海との同点決勝3試合に持ち越し、2勝以下だと南海の優勝となる。

西鉄はこの4連戦、地元で何としてでも優勝するという意識を持って戦い、19日の第1戦を17-5で大勝。続く第2戦も接戦の末3-2で制し、優勝まであと2勝と迫った。あくる勝負の20日の第1戦、負けるとレギュラーシーズンでの優勝が消滅する重要な試合も一進一退の好ゲームが展開され、5x-4のサヨナラゲームで辛うじてものにした。西鉄3連勝をしたことで南海のレギュラーステージでの優勝が消滅。後は西鉄の逆転優勝か、それとも同点決勝かの2つに絞られた。そして決戦の大一番となった第2戦。西鉄は若生忠男、安部和春の両投手の完封リレーで2-0の勝利。ついに西鉄はプロ野球史上に残る奇跡の大逆転で1958年以来5年ぶり5回目のリーグ戦優勝を決めた。これが福岡時代のライオンズとしての最後の優勝だった。この14.5ゲーム差の逆転は2008年現在日本プロ野球史上最大の逆転劇である(これに次ぐのが読売ジャイアンツメークレジェンド)。

変則ダブルヘッダー

1973年10月13日に開催された日拓ホームフライヤーズ対太平洋クラブライオンズ戦(後楽園球場)でのダブルヘッダー試合は、日程の関係で第1試合が本来の日拓主催、第2試合は太平洋主催で行われた。対戦チームは同じで主催のみが入れ替わるという珍しいダブルヘッダーだった。

胸番号だけのユニフォーム

西鉄時代の1966年にパ・リーグの球団としては初めて、背番号の上にローマ字・アルファベットのネームを書き込んだユニフォームを採用した。その後、1969年にいったんやめているが、太平洋クラブとなった1973年から復活。ただし1975年までは「FUKUOKA」(本拠地名)「TAIHEIYO CLUB」(スポンサー名)の2種類だった。

それが太平洋時代には奇抜なユニフォームを採用していた。1973年〜1975年は英語表記にすると「TAIHEIYO CLUB LIONS」となるため、ビジターの試合で使用したユニフォームの前面部では「TAIHEIYO」を大きく目立つようにして「CLUB」は少し小さめに書かれていた。またホーム用は白色だが、ビジター用は赤(メイン)、青(サブ)の2色が使用されていた。

傑物は1976年のユニフォーム。これではチーム名が長くなるので見辛いという事由から、ホームが史上初となるパンツが白でない(ピンク色)ユニフォームで、ビジター(上着もピンク色ベース)との共通では史上唯一となる前面部の企業ロゴを一切なくし、背番号だけを大きく出した「胸番号」のみの、いわゆるアメフトスタイルのユニフォームだった。ただしこのユニフォームで臨んだこの年の前期は最下位に沈み、しかもファンからは「企業名をなくしたのは身売りへの布石ではないか」と勘繰られたため、後期は同じデザインで胸のロゴが「Lions」(ホーム)「TAIHEIYO CLUB」(ビジター)のユニフォームに変更された(この時にもファンからは「企業名を復活させたのは太平洋クラブに対する引き止め工作ではないか」と勘繰られている)。実際、身売りではないが1977年に球団の冠スポンサーが太平洋クラブからクラウンガスライターに変更された。

球団の親会社

所沢移転以降、「西武」を名乗っているが、元々は西武グループの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後のコクド)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している地域密着の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を西武鉄道に変更することが承認された[14][15]

1986年の日本シリーズ

1986年の日本シリーズでは、第4戦終了時点では0勝1分3敗であったが、第5戦から4連勝して日本一に輝いた。「第4戦まで4戦勝ちなし→日本一」というパターンはこの年のライオンズのみである。

札幌ドーム

札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたことから、西武は2002年の開幕戦を、本拠地の西武ドームではなく札幌ドームで行った。
さらに西武は2003年から札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズ2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画が明らかになった。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに反対したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化が認められた。しかし結局2003年は、当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。[16]

一時は日本ハムの札幌ドームの本拠地に反対していた西武が一転してこれを認めたのは、上記の他チームの公式戦の開催の条件を認めた事、及び準本拠地で20試合程度行う事により、本拠地の試合数が減少する事を懸念した所沢の西武ファンの不満を解消させるという事であるが、これは表向きの理由であり、実際の理由はその2年後に起きたプロ野球再編問題が影響しているという説が有力とされている。

当時西武は、パ・リーグの経営難から1リーグ構想推進派の立場を取っていた。また、当時日本ハムと同じ東京ドームを本拠地に持つ巨人は、西武と同様に1リーグ構想推進派であった。巨人は日本ハムの移転計画の知らせを聞き、「1リーグ化を推進させる為には、まず関東、関西地方の球団を減らす事」と西武に提言した事で、1リーグ制を目論む巨人、西武にとっては、むしろ東京にあった日本ハムの北海道の移転は、1リーグ制を実現させる上で好都合と判断した事により、本拠地移転を認めたとされている。

2004年以降の東京ドームの試合

日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を、準本拠地として東京ドームで開催しているが、東京ドームでの西武との対戦に限っては、札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合を最後に行われていない。

しかし、日本ハム以外の球団との東京ドームでの試合は行われており、2005年より開始された交流戦および日本選手権シリーズでの巨人戦、さらに2007年5月19日20日オリックス・バファローズ対西武戦が東京ドームで開催されていた。このオリックス戦で西武は東京ドームでパ・リーグの球団と4年振りに対戦した。また、東京ドームで開催された2008年のアジアシリーズでは日本一を決めた西武が日本代表として出場した。

お台場ドーム構想

当時屋外だったライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かった。そのため、ドーム球場を建設することになり、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、移転に対する地元住民の猛反発や、多額の建設費用の捻出、更にグループ企業の西武鉄道内からも「電車の利用客が減るのは困る」との意見が出たため困難となり、西武ドームが誕生した。

地域密着と球団名変更への動き

パ・リーグでは2004年日本ハムファイターズの北海道への本拠地移転、2005年に新設球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地を東北地方に置き、いずれも地域密着の功績が実っていることから、2005年12月19日、地元・所沢市議会で球団名および球場名に「所沢」の地域名を冠するよう求める請願が全会一致で採択され、2006年1月20日に所沢市長が球団に要望書を提出した。これについて球団側は「球団名については地元密着、沿線密着の観点から今後、多方面に検討していきたい」とコメントしている。ただし、球場に訪れるファンは、所沢市を含む埼玉県に限らず、西武山口線多摩都市モノレール線からの東京都多摩地域にも多く、実際に西東京応援団もいるため、変更の判断を慎重にならざるを得なかった。

2007年1月17日太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補だが、"武蔵国の西部"として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。

同年11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、地域密着を図る。

2008年にはレギュラーシーズン優勝のかかった9月26日の対北海道日本ハム戦と日本一のかかった11月9日の対読売ジャイアンツ戦で西武ドームで初となるパブリックビューイングを実施。優勝が決定した後には太田秀和球団副社長がファンにより胴上げされた。また、球団の所沢移転後としては初となる優勝パレードも所沢市や地元商工会の要望により11月23日に所沢市内で実施され、7万人のファンが沿道を埋めた[17]

西武ライオンズ憲章

2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、更にはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。

この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。

2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。

日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。

スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に『西武ライオンズ憲章』を制定した。

全日空機の遅延で試合中止

2007年7月27日、選手やチーム関係者が乗る予定であった羽田発福岡行の全日空251便のジャンボジェット機(B747-400、JA8959)が機材の故障で出発が大幅に遅延となり、急きょ福岡Yahoo!JAPANドームでのソフトバンク戦が中止となるハプニングがあった。交通機関の影響により中止となったのは、2004年の日本ハム対ダイエー以来で、パ・リーグでは過去3度あるが、いずれも天候等の不可抗力によるものであり、飛行機の故障に起因する中止はセ・パ両リーグを通じてこれが初めてのことである。

この日、当該便は11時35分に出発予定で、一度はほぼ予定通りに駐機場を離れたのだが、直後に機材の不具合(フラップ関係の故障)が発覚し駐機場へ逆戻りした。結局修理に時間がかかることから使用機材を変更することになり、代替機[18]札幌から到着した機材を使用することになった。チーム関係者は全日空に対し便の変更を強く要請したが、夏休みの週末であることに加え翌日から佐賀インターハイが開催されるということもあり、後続便は全日空だけでなく各社とも満席で、かなわなかった。その間選手たちは出発ロビーで待たされ、代替機への搭乗が完了して再出発できたのは3時間半近く遅れた15時過ぎごろで、福岡に到着したのは16時45分ごろであった。パ・リーグの規定では「交通機関の遅延など、やむをえない理由で試合開始の2時間前までに球場へ到着しない場合、試合を中止することができる。」と定めており、この規定にのっとって中止が宣告された。

なお、この試合の振り替えは10月に行われている。

3試合連続延長引き分け

2008年8月29日~8月31日の対福岡ソフトバンクホークス3連戦は同一カード3試合連続引き分けとなった。同一カード3試合連続引き分けは日本プロ野球では1976年5月28日~5月30日の川崎球場でのロッテオリオンズ対日本ハムファイターズ3連戦以来2回目で、3試合すべてが延長引き分けとなったのは史上初の出来事であった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
西武 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 1 0 4
ソフトバンク 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 1 0 4
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
西武 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 2
ソフトバンク 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 0 2
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
西武 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
ソフトバンク 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

新人競輪トレーニング

他球団では珍しいトレーニング方法で、2002年から西武園競輪場シーズンオフ中の自主トレに行われている。新人選手は全員参加のほか、新人選手以外の選手も自己志願すれば参加可能。

放送

ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏埼玉県放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、9月までのほぼ全試合が放送されている。

※かつては、TBSテレビフジテレビでも放映権をもっていたほか、2006年はテレビ東京が1試合のみ放送した。但し、試合毎の個別契約のため、日本テレビを含めた4局の系列局で現在でも西武ドームの試合を中継することがある。

現在放送している番組

※2009年現在。

かつて放送されていた番組

福岡本拠地時代の番組

脚注

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  1. ^ 参考:「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ(2000年代途中頃までの発行分)。
  2. ^ [1]
  3. ^ 戦後に結成。1948年には都市対抗野球で優勝している。
  4. ^ この当時の巨人の主力選手の一人であった原辰徳は、「苦手を通り越してコンプレックス。トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた2002年の日本シリーズ直前の合宿地で印象を述べている。  『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。  p.86
  5. ^ スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項
  6. ^ 例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創設からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。
  7. ^ 1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない豊田は上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。
  8. ^ 2009年の公式サイト更新では「ヒストリー」欄において、簡略ながらも黒い霧事件について言及している。
  9. ^ 横浜ベイスターズは名称は同じだがオーナー企業が変わっている。
  10. ^ 「ベースボールマガジン」2002年夏季号ほか。
  11. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号22-23ページ 復刻ユニフォーム物語」
  12. ^ パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、西武の方針は異例だった。参照:千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧
  13. ^ 斉藤一美 うるわしの夜2009年5月7日放送分「愛してマスコット」より
  14. ^ n:西武ライオンズの運営母体が西武鉄道に移管
  15. ^ http://www.seibu-group.co.jp/shd/data/081121.pdf
  16. ^ 西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催の札幌ドームでの試合は2004年以降行われていない。
  17. ^ 西武:地元で優勝パレード…ファン7万人が「日本一」祝う
  18. ^ 変更した機材はピカチュウジャンボ(JA8957)で、翌28日付の報知新聞には「ゲットだぜ代替ポケモン機」との見出しがあった。

関連項目

外部リンク

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