| 埼玉西武ライオンズ | |
| 会社名 | 株式会社西武ライオンズ |
|---|---|
| 創設年度 | 1950年 |
| 所属リーグ | |
| パシフィック・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 西武ドーム | |
| 収容人員 | 33,921人(西武ドーム) |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 永久欠番 | |
| なし | |
| 獲得タイトル | |
| アジアチャンピオン(1回) | |
| 2008 | |
| 日本一(13回) | |
| 1956 | 1957 | 1958 | 1982 | 1983 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 2004 | 2008 | |
| リーグ優勝(21回) | |
| 1954 | 1956 | 1957 | 1958 | 1963 | 1982 | 1983 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1997 | 1998 | 2002 | 2004 | 2008 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) | |
| 2008 | |
| 日本シリーズ出場(21回)(太字は勝利した年) | |
| 1954 | 1956 | 1957 | 1958 | 1963 | 1982 | 1983 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1997 | 1998 | 2002 | 2004 | 2008 | |
| クライマックスシリーズ(3回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) |
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| 1勝2敗 2008 | 2010 | 2011 |
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| プレーオフ(2004-2006)(3回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) |
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| 1勝2敗 2004 | 2005 | 2006 |
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| プレーオフ(前後期制)(1回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) |
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| 1勝0敗 1982 |
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| 球団組織 | |
| オーナー | 後藤高志 (西武ホールディングス代表取締役社長) |
| 運営母体 | 西武鉄道 (西武ホールディングス傘下) |
| 監督 | 渡辺久信 |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | 埼玉西武ライオンズ、西武、埼玉西武、ライオンズ |
| 本社所在地 | 〒359-1189 埼玉県所沢市上山口2135番地 |
| 本店所在地 | 〒171-0022 東京都豊島区南池袋一丁目16-15 |
| 設立 | 1950年1月28日 (西鉄野球株式会社) |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球球団運営 ほか |
| 代表者 | 後藤高志(オーナー) 居郷 肇(代表取締役社長) |
| 資本金 | 1億円(2010年3月31日現在) |
| 売上高 | 100億円(2010年3月期) |
| 純利益 | △2,965万7,000円 (2010年3月期) |
| 純資産 | 15億5,379万8,000円 (2010年3月31日時点) |
| 総資産 | 30億555万6,000円 (2010年3月31日時点) |
| 従業員数 | 74人(2010年3月31日時点) |
| 決算期 | 3月末日 |
| 主要株主 | 西武鉄道 100% |
| 関係する人物 | 西亦次郎、中村長芳、堤義明、坂井保之、根本陸夫 |
| 外部リンク | http://www.seibulions.jp/ |
| 特記事項:1978年10月25日に福岡野球株式会社から現商号に変更。西武ホールディングスの連結子会社である。 | |
埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。
埼玉県を保護地域とし、同県所沢市にある西武ドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)は隣接する西武第二球場を本拠地としている。
目次 |
元々の経営母体だった西日本鉄道(西鉄)は、戦前期に西鉄軍を経営していた(現在のライオンズとは直接の関係はない)ものの1943年に解散。西鉄初代社長の村上巧児は戦後の福岡に明るい話題を提供したいとの思いから戦後直ぐにも球団再建を図るが日本野球連盟に認められず、取り敢えずはノンプロで活動[1]せざるを得なかった。
ところが1949年暮れに、1リーグ体制だった連盟が2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[2]、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足したパ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)し、1950年1月28日に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した(この日を球団創立日とする文献も存在する[3])。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守・深見安博・河野昭修・塚本悦郎ら、八幡製鉄の鬼頭政一ら、別府星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で巨人の主戦投手であった川崎徳次、福岡県出身で前年度南海で20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。
1951年1月30日、同じく福岡市を本拠地としていたセ・リーグの西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。
1952年、シーズン途中に、契約が難航していた東急の大スター大下弘を深見安博とのトレードで獲得。
1954年は2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(中西太(31本)・関口清治(27本)・大下弘(22本))を記録する等、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録し、チーム結成以来初のリーグ優勝を飾る。
1956年~1958年に三原脩監督の下日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。
1959年中西太が手首の腱鞘炎で不調だったこともあって4位に終わり、三原監督が辞任。川崎徳次が監督に就任する。
1961年稲尾和久が日本記録となる42勝をマークするも、2年連続3位に終わり、川崎監督が辞任。シーズン終了後、中西太が選手兼任監督に就任。また、豊田泰光が助監督兼任、稲尾和久が投手コーチ兼任となる。豊田はこの年限りで退団、国鉄へ金銭トレードにより移籍する。
1963年は、中西監督の下、豊田のトレードマネーで獲得したロイ・ウイルソン・バーマの3外国人の活躍により、南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終4連戦(2日連続ダブルヘッダー)に全勝し、大逆転優勝を飾る。また、西鉄時代及び福岡本拠地時代としては最後のリーグ優勝となった。
1964年稲尾和久の故障もあり5位に低迷するが、その後新人でいきなり20勝を挙げエースとなった池永正明や、外国人選手の活躍により、1966年~1967年までAクラスを確保する。
1969年2年連続Bクラスの責任を取って中西監督が辞任。さらに「黒い霧事件」が発覚し翌1970年までにかけて池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により戦力が大幅にダウン。1970年から1972年まで3年連続最下位となって観客動員数も減少し経営が悪化。本業である交通事業の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。
1972年11月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このためこれらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。
初年度の1973年、オーナー自らが手掛けた大規模なチーム改造の結果、チームは3年ぶりに最下位を脱出。前期4位・後期5位、通算4位に終わる。観客動員数も前年までの平均の倍増を記録。翌1974年も4位に終わり、稲尾監督が退任。代わって大洋から江藤慎一が、球団初のプレーイングマネージャーとして監督に就任。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得するなど、積極的な戦力補強に取り組んだ。
1975年、前期は2位・後期は4位に終わるも通算で3位、太平洋クラブが親会社となって初のAクラス入りとなった。東尾が23勝を挙げて初の最多勝となり、土井が34本で初の本塁打王に輝き、白も打率.319で首位打者を獲得。その活躍ぶりを称え中村オーナーが「どんたく打線」と命名。オフには、加藤初との交換トレードで巨人から関本四十四を獲得。
1976年、江藤監督を解任し、大リーグからレオ・ドローチャーの監督就任が発表されたが、病気のため来日することなく契約解除。鬼頭政一ヘッドコーチを監督に昇格。しかしトレードで獲得した関本は、肩の故障のために僅か1勝しか出来ず、かつての新人王・加藤を放出したのが大きく響く結果となり、4年ぶりの最下位。観客動員数も前年比マイナス43%となった。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者、大田卓司も前期三冠王の活躍で最優秀指名打者に選ばれた。
この年の大幅な観客数減が大きく響き、球団経営が困難となった太平洋クラブは、ライオンズ球団を身売りした。
1976年10月12日に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズ(Clown-Lighter Lions。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す(10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。
1977年、左腕の永射保が台頭、それまでは中継ぎやワンポイントが多かったがいきなり9勝を挙げ、チーム不振の中で山下・東尾に次ぐエース級の働きを見せるも、チーム成績は2年連続の最下位に終わる。同年オフ、ドラフト会議で江川卓を1位指名。しかし「九州は遠すぎる」と拒否された。
1978年、鬼頭監督に代わり根本陸夫が監督に就任。しかし、結果は5位。この年、真弓明信が主力に成長、ベストナインにも選出された。
1978年レギュラーシーズン終了後の10月12日、球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズ(Seibu Lions)となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。
1979年に西武ライオンズとして最初のシーズンがスタート。1979年は前期は春季キャンプでの調整失敗もあり開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で、通算成績も最下位であった。
1980年は前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。
1981年は前期は終盤まで優勝を争うも惜しくもロッテに敗れ2位。だが後期は失速して5位に沈む。通算では4位。このシーズン限りで根本監督が退任。
1月7日、合宿所完成。
1982年はこの年より就任した広岡達朗監督の下、チームの改革を実施。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤躓くと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムファイターズの抑え投手、江夏豊を見事に攻略、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでもセリーグ優勝チームの中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、24年ぶりの日本一に輝く。
1983年は序盤から首位を独走、86勝40敗4分の圧倒的な成績で2年連続リーグ優勝、日本シリーズでも歴史に残る大激戦の末読売ジャイアンツを4勝3敗で下し、2年連続日本一。
1984年は田淵幸一や山崎裕之など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷、結局3位に終わる。
1985年は5年目の秋山幸二がホームラン王を争い、投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れる。シーズン終了後、広岡監督が契約年数を1年残して辞任する。広岡監督の後任には1982年から1984年まで広岡の下、ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園の清原和博を6球団競合の末[4]、交渉権を獲得している。
1986年からの森祇晶(昌彦より改名)監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。
1986年はドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでも広島東洋カープを1引き分けの後の3連敗から4連勝して逆転日本一。
8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。
1987年は序盤は清原和博の不振、辻発彦や渡辺久信など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは第6戦の伝説の走塁などで巨人を圧倒、2年連続日本一[5]。
1988年は終盤まで首位を快走するが近鉄の猛追にあう。近鉄が10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝するとリーグ4連覇を逃す大ピンチであったが、近鉄がダブルヘッダー第2試合を引き分けたことにより4連覇を達成。日本シリーズでは4勝1敗と中日を圧倒し、3年連続日本一。
1989年は序盤から低迷、7月途中まで3連勝すらない状況であった。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、リーグ5連覇を逃す。
1990年は序盤から圧倒的な強さで首位を独走、危なかったのは6月に8連敗したのみという安定感ある戦いでリーグ優勝を奪回。日本シリーズでも巨人を4連勝で下す。
1991年は開幕から8連勝を果たす。しかし、中盤からは調子を上げてきた近鉄との激しい一騎打ちとなる。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでも広島を破る。
1992年は6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでもヤクルトを破り3年連続日本一。2009年終了現在、日本シリーズの連覇はこの年の西武以来出ていない。
1993年はオレステス・デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし、日本シリーズではヤクルトに前年の雪辱を果たされる。オフには9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。
1994年はオリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが地力と経験に勝る西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森監督はこの年限りで勇退。
1995年、東尾修監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。
1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。
1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。この年のドラフトで高校野球春夏連覇を果たした横浜高校の松坂大輔を1巡目指名。日本ハム、横浜との競合の末、抽選で交渉権を獲得している。
1999年には西武ドームが完成、松坂人気などもあり観客動員数増加、テレビ中継増加と世間の注目を集めるが、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。
2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。
2002年、伊原監督就任1年目は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝、アレックス・カブレラが球団新記録・日本プロ野球タイ(右打者としては史上最高)記録のシーズン本塁打55本。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。同年のドラフトで松坂の横浜高校同級生で法政大学野球部の主砲後藤武敏を獲得、翌年の開幕戦でカブレラの故障で「四番・ファースト」に抜擢。
2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。
2004年に伊東監督が就任。レギュラーシーズンは総合2位であったが、この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて北海道日本ハムファイターズを破り、続く第2ステージでは福岡ダイエーホークスを3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。
シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。
2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。
2006年、北海道日本ハムファイターズとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずかゲーム差1.0差で2位に終わる。プレーオフでも、3位の福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。
2007年は交流戦で10連敗を記録するなどして低迷。9月26日、対千葉ロッテ戦に敗れた時点で26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、結局最下位オリックスから2.5ゲーム差の5位に終わる。シーズン最終戦の直前、伊東監督は不振の責任を取り辞意表明した。
2008年は1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新。その結果、打撃力が大幅にアップし、渡辺久信にNo Limit打線と名付けられた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武となって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージにて対戦し4勝2敗で破り、2004年以来の日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、第5戦終了時点では2勝3敗と相手に日本一へのリーチを掛けられてしまったものの、第6戦を岸孝之のロングリリーフで捥ぎ取り、最終第7戦まで縺れ込む展開となった。その最終第7戦は平尾博嗣の決勝適時打などで逆転勝ちし、4勝3敗で4年ぶりの日本一に輝いた。
アジアシリーズでは予選でSKワイバーンズに1点差で敗れたものの統一セブンイレブン・ライオンズと天津ライオンズに勝利。失点率の差で1位で予選通過すると、決勝戦の対統一戦では9回裏に四球で出た石井義人が佐藤友亮のセンター前ヒットで統一の緩慢な守備の隙を突き一塁からホームイン。日本勢4連覇を果たし、佐藤友亮がMVPに選出された。
2009年1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。また、西武ドームのホームベンチが三塁側に変更されることも2008年12月26日のプレスリリースにて発表されている。1月28日、その新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。ちなみに、このユニフォームは春季キャンプ・オープン戦では使用されず、4月の公式戦から使用されている。
2009年のペナントレースは昨シーズンの守護神であったグラマンの離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が5試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなる。Bクラスに終わったが、球団は渡辺監督と2011年までの2年契約を結んだ。ドラフト会議で花巻東高校菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末、獲得。
2010年は前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返す。終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速し、優勝した福岡ソフトバンクホークスにわずか1厘差[6]の2位に終わる。クライマックスシリーズも投手陣の崩壊は止まらず、3位千葉ロッテマリーンズの前に2連敗を喫し敗退。ドラフトでは1位希望の早稲田大学大石達也を横浜・楽天・広島・オリックス・阪神との6球団による競合の末、獲得。
2011年シーズンは、東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛する事となった[7][8]。セパ交流戦の後半から失速し、7月から約2か月に渡って最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で[9]、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5糸(0.5毛)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた[10]。クライマックスシリーズでは、ファーストステージで2位日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージでは1位ソフトバンクの前に3連敗した。オフには、帆足和幸がFA移籍でソフトバンクに移籍。フェルナンデス、許銘傑が退団。
※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで日本ハム、ダイエーと連破して優勝。
1979年~:西武鉄道が球団を買収し、「西武ライオンズ」に。ライオンズブルーを地色。真中に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「LIONS」。
「チャンステーマ」も参照
なし
西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。
なお、西武ライオンズは本拠地の西武ライオンズ球場・西武ドームでの試合開催率が高く[15]、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982-86年と1989-93年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を解禁した。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催している。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。
所沢移転後の本拠地球場である西武ドーム(西武ライオンズ球場)は2008年までは一塁側をホームベンチとしていたが2009年からは三塁側をホームベンチとしている。また、大宮でのゲームでも三塁側を使用している。西武ドーム、大宮以外での開催ではどちらをホームベンチとするかは明確な決まりはないので開催要項を確認すること。なお、西武ドームのホームベンチが三塁側に変更となった2009年以降、埼玉県外の主催試合において三塁側をホームベンチとして使用した例はない。
ライオンズの本拠地は現在埼玉県所沢市であり、都道府県庁所在地(埼玉県の県庁所在地はさいたま市)でも政令指定都市でもない市におかれている。これはパ・リーグ6球団の中でライオンズだけであり、セ・リーグでも東京都の都心23特別区に本拠地を置く巨人(文京区)と東京ヤクルト(新宿区、ただし同区は東京都庁所在区)を除くと阪神(兵庫県西宮市)だけである。
2005年の東北楽天ゴールデンイーグルスのパ・リーグ加盟により、同年および2006年のパ・リーグ東西対抗では関東の球団ながら西軍とされた。これは、同じ関東の球団の千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉県千葉市よりも西に位置しているためである。
また、西武ドームの敷地内には二軍の本拠地である西武第二球場、屋内練習場、合宿所「若獅子寮」などの球団施設がまとまって立地している他、球団事務所もドームに隣接して設けられている(1986年8月4日までは東京都豊島区東池袋のサンシャイン60であった)。このため一・二軍間の選手入れ替えが行いやすく、また合宿所住まいの選手は試合終了後すぐ練習に取り掛かれるなど利便性が高い。本拠地球場の敷地内に球団施設がまとまって立地しているケースは他球団では例がなく、当然ながら一軍とファームの本拠地間の距離は12球団の中で最も短い。また、鉄道、バス等の公共の交通機関や自動車等を利用せずに一軍・二軍の本拠地間をすぐに行き来できるのは西武以外の11球団では阪神タイガースのみである。
※太字は優勝達成監督
「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「Let's Go Lions」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社→廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。
詳細は「ライオンズとオリオンズの遺恨」を参照
埼玉西武ライオンズと千葉ロッテマリーンズとは、前身の西鉄・毎日時代から1952年の平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。
1961年5月21日、東映フライヤーズとの試合は戦後初の海外遠征試合としてアメリカの占領下の沖縄(1972年に日本本土復帰)で初めて開かれた。
1963年の西鉄は前半戦、南海ホークスに14.5ゲームの大差を付けられ3位に甘んじていたが、このシーズンのペナントレースは150試合制で行われたため、逆転の可能性が充分にあった。
後半戦に入って、西鉄の猛追がスタート。一旦4位に転落するも10月8日の時点で80勝57敗3分け(勝率.584)で首位に並んだ。その後も2チームのデッドヒートが続き、南海は10月17日、85勝61敗4分け(勝率.582)で全スケジュールを消化。後は西鉄の残り4試合に優勝が委ねられることと成った。
西鉄の残り4試合は全てホーム・平和台での近鉄戦。10月19日と20日にそれぞれダブルヘッダーによる4連戦。4連勝なら逆転優勝、3勝1敗なら南海と3試合制の同点決勝(プレーオフ)を実施、2勝以下だと南海の優勝となる。
西鉄はこの4連戦、19日の第1戦を17-5で大勝。続く第2戦も接戦の末3-2で制した。20日の第1戦、5x-4のサヨナラゲームで辛うじてものにした。西鉄の3連勝により、後は西鉄の逆転優勝か、それとも同点決勝かの2つに絞られた。そして第2戦。西鉄は若生忠男、安部和春の両投手の完封リレーで2-0の勝利。ついに西鉄はプロ野球史上に残る奇逆転で1958年以来5年ぶり5回目のリーグ戦優勝を決めた。これが福岡時代のライオンズとしての最後の優勝だった。この14.5ゲーム差の逆転は2011年現在日本プロ野球史上最大の逆転劇である。
1973年10月13日に開催された日拓ホームフライヤーズ対太平洋クラブライオンズ戦(後楽園球場)でのダブルヘッダー試合は、日程の関係で第1試合が本来の日拓主催、第2試合は太平洋主催で行われた。対戦チームは同じで主催のみが入れ替わるという珍しいダブルヘッダーだった。
西鉄時代の1966年にパ・リーグの球団としては初めて、背番号の上にローマ字・アルファベットのネームを書き込んだユニフォームを採用した。その後、1969年にいったんやめているが、太平洋クラブとなった1973年から復活。ただし1975年までは「FUKUOKA」(本拠地名)「TAIHEIYO CLUB」(スポンサー名)の2種類だった。
それが太平洋時代には奇抜なユニフォームを採用していた。1973年~1975年は英語表記にすると「TAIHEIYO CLUB LIONS」となるため、ビジターの試合で使用したユニフォームの前面部では「TAIHEIYO」を大きく目立つようにして「CLUB」は少し小さめに書かれていた。またホーム用は白色だが、ビジター用は赤(メイン)、青(サブ)の2色が使用されていた。
傑物は1976年のユニフォーム。これではチーム名が長くなるので見辛いという事由から、ホームが史上初となるパンツが白でない(ピンク色)ユニフォームで、ビジター(上着もピンク色ベース)との共通では史上唯一となる前面部の企業ロゴを一切なくし、背番号だけを大きく出した「胸番号」のみの、いわゆるアメフトスタイルのユニフォームだった。ただしこのユニフォームで臨んだこの年の前期は最下位に沈んだ。後期は同じデザインで胸のロゴが「Lions」(ホーム)「TAIHEIYO CLUB」(ビジター)のユニフォームに変更された。
所沢移転以降、「西武」を名乗っているが、元々は西武グループの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後のコクド)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している地域密着の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を西武鉄道に変更することが承認された[17]。
1986年の日本シリーズでは、第4戦終了時点では0勝1分3敗であったが、第5戦から4連勝して日本一に輝いた。「第4戦まで4戦勝ちなし→日本一」というパターンはこの年のライオンズのみである。
札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたことから、西武は2002年の開幕戦を、本拠地の西武ドームではなく札幌ドームで行った。
さらに西武は2003年から札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズが2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画が明らかになった。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに反対したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化が認められた。しかし結局2003年は、当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。[18]
一時は日本ハムの札幌ドームの本拠地に反対していた西武が一転してこれを認めたのは、上記の通り他チームの公式戦の開催可能を認めた事のほか、準本拠地として20試合程度行う事で本拠地の試合数が減少するため、所沢の西武ファンからの反発が予想される事、さらに誘致先の札幌市も、「準本拠地化よりも本拠地化を目指している球団を誘致したい」という流れのため、準本拠地化としての利用の方針を曲げられなかった西武側は不利であると判断した事などを理由に断念したとされる。しかしそれは表向きの理由であり、実際の理由はその2年後に起きたプロ野球再編問題が影響しているという説が有力とされている。
当時西武は、パ・リーグの経営難から1リーグ構想推進派の立場を取っていた。また、当時日本ハムと同じ東京ドームを本拠地に持つ巨人は、西武と同様に1リーグ構想推進派であった。巨人は日本ハムの移転計画の知らせを聞き、「1リーグ化を推進させる為には、まず関東、関西地方の球団を減らす事」と西武に提言した事で、1リーグ制を目論む巨人、西武にとっては、むしろ東京にあった日本ハムの北海道の移転は、1リーグ制を実現させる上で好都合と判断した事により、本拠地移転を認めたとされている。
日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を、準本拠地として東京ドームで開催しているが、東京ドームでの西武との対戦に限っては、札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合を最後に行われていない。
しかし、日本ハム以外の球団との東京ドームでの試合は行われており、2005年より開始された交流戦および日本選手権シリーズでの巨人戦、さらに2007年5月19日・20日にオリックス・バファローズ対西武戦が東京ドームで開催されていた。このオリックス戦で西武は東京ドームでパ・リーグの球団と4年振りに対戦した。また、東京ドームで開催された2008年のアジアシリーズでは日本一を決めた西武が日本代表として出場した。2012年7月2日には福岡ソフトバンクホークス-西武戦が東京ドームで行われる。
当時屋外だったライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かった。そのため、ドーム球場を建設することになり、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団[19]もあり、全ての球団の承諾を得る必要があり、さらに移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、西武ドームが誕生した。
パ・リーグでは2004年に日本ハムファイターズの北海道への本拠地移転、2005年に新設球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが本拠地を東北地方に置き、いずれも地域密着の功績が実っていることから、2005年12月19日、地元・所沢市議会で球団名および球場名に「所沢」の地域名を冠するよう求める請願が全会一致で採択され、2006年1月20日に所沢市長が球団に要望書を提出した。これについて球団側は「球団名については地元密着、沿線密着の観点から今後、多方面に検討していきたい」とコメントしている。ただし、球場に訪れるファンは、所沢市を含む埼玉県に限らず、西武山口線や多摩都市モノレール線からの東京都多摩地域にも多く、実際に西東京応援団もいるため、変更の判断を慎重にならざるを得なかった。
2007年1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補だが、"武蔵国の西部"として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。
同年11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、地域密着を図る。 2008年にはレギュラーシーズン優勝のかかった9月26日の対日本ハム戦と日本一のかかった11月9日の対巨人戦で西武ドームで初となるパブリックビューイングを実施。優勝が決定した後には太田秀和球団副社長がファンにより胴上げされた。また、球団の所沢移転後としては初となる優勝パレードも所沢市や地元商工会の要望により11月23日に所沢市内で実施され、7万人のファンが沿道を埋めた[20]。
2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、更にはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。
この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。
2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。
日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。
スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に『西武ライオンズ憲章』を制定した。
2007年7月27日、選手やチーム関係者が乗る予定であった羽田発福岡行の全日空251便のジャンボジェット機(B747-400、JA8959)が機材の故障で出発が大幅に遅延となり、急きょ福岡Yahoo!JAPANドームでのソフトバンク戦が中止となるハプニングがあった。交通機関の影響により中止となったのは、2004年の日本ハム対ダイエー以来で、パ・リーグでは過去3度あるが、いずれも天候等の不可抗力によるものであり、飛行機の故障に起因する中止はセ・パ両リーグを通じてこれが初めてのことである。
この日、当該便は11時35分に出発予定で、一度はほぼ予定通りに駐機場を離れたのだが、直後に機材の不具合(フラップ関係の故障)が発覚し駐機場へ逆戻りした。結局修理に時間がかかることから使用機材を変更することになり、代替機[21]は札幌から到着した機材を使用することになった。チーム関係者は全日空に対し便の変更を強く要請したが、夏休みの週末であることに加え翌日から佐賀でインターハイが開催されるということもあり、後続便は全日空だけでなく各社とも満席で、かなわなかった。その間選手たちは出発ロビーで待たされ、代替機への搭乗が完了して再出発できたのは3時間半近く遅れた15時過ぎごろで、福岡に到着したのは16時45分ごろであった。パ・リーグの規定では「交通機関の遅延など、やむをえない理由で試合開始の2時間前までに球場へ到着しない場合、試合を中止することができる。」と定めており、この規定にのっとって中止が宣告された。
なお、この試合の振り替えは10月に行われている。
他球団では珍しいトレーニング方法で、2002年から西武園競輪場シーズンオフ中の自主トレに行われている。新人選手は全員参加のほか、新人選手以外の選手も自己志願すれば参加可能。
西武が本拠地を福岡から所沢に移転した後、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。
球団の公式記録は全て所沢移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった[22]。また、福岡時代に所属したが、所沢移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手は球団OBと認められず、顕彰や始球式などは行われなかった[23]。
西武がこのように歴史の断絶を強調した背景には黒い霧事件で西鉄に残った悪印象と訣別したい意図が存在するのではないかとの指摘もあったが、このような扱いに対して福岡時代のファンの反発は強まり、福岡へのプロ野球チーム再誘致運動の末に1989年に実現した南海ホークスの福岡移転後は、福岡のライオンズファンがホークスへ多く流出した。
このような扱いであった福岡時代の歴史が、2008年以降変わった。
2008年より公式ウェブサイト内年表において、西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、2008年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。
2008年は西武球団創設(所沢移転)30周年と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6-8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光による監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も継続されている。
こうした姿勢の変化には堤義明オーナーの退任による経営陣の一新、黒い霧事件における池永正明の永久追放処分が2005年に解かれたこと[24]、西鉄・太平洋時代の功労者である稲尾和久の死去(2007年)、さらには福岡時代より所沢移転後の年数が長期になった事などが関係していると見られる。
※2011年現在。
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