| やましろ しんご 山城 新伍 |
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| 本名 | 渡辺 安治 わたなべ やすじ |
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| 生年月日 | 1938年11月10日 | ||||
| 没年月日 | 2009年8月12日(満70歳没) | ||||
| 出生地 | |||||
| 死没地 | 東京都町田市 | ||||
| 国籍 | |||||
| 職業 | 俳優、テレビ司会者 | ||||
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、CM、映画評論、テレビ番組の司会 | ||||
| 活動期間 | 1957年 - 2007年 | ||||
| 配偶者 | なし | ||||
| 公式サイト | (株)オフィス・タッチ 山城新伍プロフィール | ||||
| 主な作品 | |||||
| 映画:『仁義なき戦いシリーズ』、『不良番長シリーズ』、『桃太郎侍』、『白馬童子』 | |||||
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山城 新伍(やましろ しんご、1938年11月10日 - 2009年8月12日)は、京都府京都市出身の俳優、司会者、映画評論家、映画監督、タレント。本名:渡辺 安治(わたなべ やすじ)。
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京都府立山城高等学校卒業。浜村淳、元阪神タイガース監督吉田義男は高校の先輩、サッカーで活躍していた釜本邦茂、毎日放送アナウンサー野村啓司は高校の後輩である。高校では、ラグビー部に入っていた。
時代劇スターに憧れエキストラをやった後、東映ニューフェイス第4期に応募して、1957年に東映へ入社。同期には曽根晴美、室田日出男、佐久間良子、花園ひろみ、山口洋子など。1958年に映画『台風』でデビューし、翌年にはテレビ時代劇『風小僧』で初主役となり、さらには1960年にテレビ時代劇『白馬童子』で主演を務め、子供たちの人気者となる。子供向けの時代劇だったが、都会的で端整な顔立ちのスマートな青年で、白馬に跨り忍者のような白装束の衣装が似合い、立ち回りの切れもよかったため大人からも人気を博した。
当時は映画の全盛期でテレビは黎明期だったので、映画会社はテレビを軽視し、ドラマには無名の俳優ばかりが出演していた。しかし、東映の俳優による公開野球大会が行われたとき無名若手俳優の山城が登場すると並居る大スター以上の拍手が客席から沸き起こった。また当時映画監督や俳優にはテレビの仕事をする監督や役者は二流だという認識があったため、嫉妬からいわれのないイジメを数知れず受け、長年俳優として辛酸をなめることとなり、映画では脇役が多かった。
1960年代に入ると黒澤明や勝新太郎の座頭市などの影のあるリアルな時代劇に人気が集まり、脳天気な白塗りの東映時代劇の人気がなくなった。このころから若手監督の深作欣二と交友を深め二枚目からアクの強い個性派にイメージチェンジを図り、東映ヤクザ映画で再び頭角を現すようになった。そのジャンルを選ばぬ姿勢を評して「ミスター・プログラムピクチャー」と呼ばれた。
その後、1970年代から活躍の舞台をテレビに移し、その辛らつでいながら温かみのある語り口からバラエティ番組でもいかんなくその個性を発揮し、機転の良さとコメディー・センスと関西弁の話術で、司会やパネラーとして活躍。作家の小林信彦からその司会ぶりを「日本人離れした話術」と賞賛された[1]、2時間ドラマでは主演作を多く持った。
1970年代初期、3年ほど干されていた時期がある。吉田豪によるインタビューによると「海外で銃を買って帰ったため」だという。
東映では若山富三郎に気に入られ、その影響を受けて、俳優仲間、特に映画『仁義なき戦い』での共演者を中心に面倒見のいいところがあり、仲間たちのバラエティ進出をフォローしていた向きがある。認めないうちは非常に厳しいが、いったん認めると重用するところがある。若山についてはその役者馬鹿ぶりを『おこりんぼさびしんぼ』という著書にまとめて一部で評判を呼んだ[2]。
本人はテレビ出身のコンプレックスが強く、映画への想いは熱い。俳優・タレント活動以外にも、映画評論、映画監督もこなしている。監督としては、にっかつロマンポルノのヒット作『女猫』(めねこ)、『双子座の女』のほか、『せんせい』、『やくざ道入門』、『本日またまた休診なり』、『ファミリー』といった作品がある。
映画評論では、1979年10月から2002年3月までサンテレビで放送された『火曜洋画劇場』で司会を行った。低予算のためB級映画が放送されることが多かったが、そんな中でも「アクションはC級で…」など歯に衣着せぬも映画愛にあふれる言葉で映画の批評を行っていた。東京12チャンネルの『木曜洋画劇場』でも映画解説者を務めたが、1977年の『独占!男の時間』最終回で東京12チャンネル批判をしたことが災いし、すぐに降板となった。 1982年に内藤誠監督と脚本の桂千穂が個人出資で筒井康隆原作を映画化した『俗物図鑑』では反吐評論家役で出演。当初は主演の話もあったが、原作者に容姿が似すぎているためNGとなったという。替わって主演した平岡正明は「思想の似た者は容姿も似る」とコメントしている。この映画は結局、平岡以下本物の評論家や文化人が大部分のキャストを担うことになった。ただし、山城の出演は多忙のため不自然に姿が見えなくなる場面が出てくるなど限定的であり、超低予算から考えても当初山城主演説は平岡が後からウケ狙いまたは照れ隠しで作った話にすぎない可能性もある。
プロ野球は阪神タイガースのファンであり、サンテレビのプロ野球中継『サンテレビボックス席』にゲストとして呼ばれたこともある。
1990年代まではテレビ番組の司会やクイズ番組のパネラーとして活躍し、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共演した逸見政孝とは、同じ関西出身である事や番組出演がきっかけで親友となり、彼の葬儀では「春になったら一緒に憎まれ口を叩きながら(『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番での)司会をやりたかったのに、残念なものだ」と弔辞を読み涙した。また日曜19時枠で『クイズ・マネーイズマネー』の司会を務め、同番組が終了してしばらく経った後、当時裏番組だった『クイズ!!ひらめきパスワード』で2代目司会者を務めるという事があった。
演じる役の幅は、『不良番長』シリーズなどでの超C調なキャラクターから、『付き馬屋おえん』などでの無口で職人肌の男まで広く、どの役でも圧倒的な存在感を見せていた。
かつて島田紳助とは『新伍&紳助のあぶない話』で共に司会を務め、バラエティ番組で共演するほど仲が良かったが、一時期関係が悪化したことがあった。その後は2002年10月の『開運!なんでも鑑定団』で共演しており、関係は修復されたようで、山城の訃報に、「大先輩なのにいつも『紳助ちゃん』と呼んでいただき、優しくしてもらいました」と紳助が惜しんでいる。
関西弁(時おり関東弁になったこともある)で物事をはっきりとテレビでも言う性格で知られているため、敵対する者も多く、以前『新伍のわがまま大好き』などでも共演していたやしきたかじんは「山城は嫌いや」と言って憚らない(2009年8月16日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』の冒頭で山城の死去について触れ、「嫌な奴だった」と述べている)。山城はたかじんを評価しており、『たかじんnoばぁー』の出演を熱望したが、しばらく断られていた。後に共演するが、その後も「俺は好きになれん」と言われていた。
1992年1月に暴力団の組長の娘の結婚式で仲人を務めて、問題だとして集まった芸能レポーターに「父親がヤクザの娘は幸せになってはいけないのか」と反論した[3][4][5]。
2005年12月25日、『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ系)に出演。糖尿病を患っていたことを告白。また、鶴田浩二、若山富三郎、菅原文太、里見浩太朗、逸見政孝とのエピソードについて語った。糖尿病を患ってからは痩せ、テレビ番組の露出を控えていた。
2007年1月2日・1月9日合併号の週刊女性にて『「食べこぼしまみれ」徘徊の日々』と題された記事において、デパートでカレーライスを食べこぼしたり、自動販売機に吠えるなど奇行が報じられた。この記事に対し、自らザ・ワイドに出演し「記事はでたらめ、食べこぼしする癖があるが食べこぼしはちゃんと自分で始末している」と反論していた[6]。
2007年5月6日、朝日新聞日曜版で写真入りで近況が伝えられる。糖尿病はコントロールできているとのことで、容色もふっくらとし、現場復帰への意欲を述べていた。医師をしていた父も重度の糖尿病で亡くなったとのことで、糖尿病は「遺伝」だとコメントしていた。
2008年8月28日発売の『週刊文春』9月4日号で『「このまま消えてしまいたい」山城新伍直撃「老人ホーム」最後の日々を語る」』と題された記事において、同年6月に老人ホームに入居し老後を送っていると報じられた。そこでは「芸能界に戻る気はない」、「みんな自分の事を忘れている」、「娘には会いたい」と言うことでテレビに出演することを期待したが、自力歩行が困難な状態であり、また糖尿病の他にも老人性鬱病、認知症など患っており復帰は困難という状況であった[7]。
2009年8月12日、東京都町田市の特別介護老人ホームで嚥下障害による肺炎で逝去。享年72(満70歳没)。遺骨は金閣寺と京都市内の寺院に分骨して納骨されることとなった。[8] 同年10月9日、梅宮辰夫、松方弘樹らが発起人となった「お別れの会」が都内のホテルで催され、長門裕之、菅原文太、中村玉緒、地井武男、和田アキ子ら136人が出席し、故人を偲んだ。
父は開業医で、母は看護婦(山城も時折トーク番組等でその矍鑠ぶりをネタにしていたが奇しくも山城の方が先に逝くこととなった)。2000年に監督した映画『本日またまた休診なり』は亡父へ捧げた作品。弟も医師で、山城が老人ホームに入所してからは何回か面会に訪れ、山城の臨終を看取った。
元女優の花園ひろみは元夫人で、元女優の南夕花は長女。花園ひろみには車に同乗させて湖に突っ込み、「結婚してくれないとこのまま死ぬ!」と結婚を迫った。それだけ花園を深く愛し、それに自信を持っているが、女性関係にゆるい部分もあり、花園とは結婚と離婚を2回ずつしている。
娘の南夕花を溺愛して、自らの司会する『新伍のワガママ大百科』に起用したり舞台で共演し、「僕の家族は山城教だ」と家族の結束に強い自信を持っていたが、離婚後の2000年『婦人公論』2000年6月号のインタビューで山城新伍に絶縁を宣言、籍を抜いた。
なお、『週刊文春』の老人ホーム入居の記事が出ても彼女らが訪れることは無く、山城はふたりを恨んでいたという。そのため、山城は葬儀にふたりを呼ばないように言っていたという。ただし、生前週刊誌の取材で「娘には逢いたい」と話すなど、娘に対する愛情は生涯残っていた。没後、山城の実弟や東映の同期俳優の曽根晴美らが呼びかけたが、葬儀への二人の参列は無く(お別れ会や四十九日にも参列していない)、連絡も一切ないという。
東映→沢井プロダクション→(株)サイプロダクション→(株)プロダクションノータイトル→(株)オフィス・タッチ
山城新伍が東映京都に入ったばかりの頃、先輩俳優から「乗馬を覚えておけ。馬に乗れるようになれば、ウチ(東映京都)は時代劇(の映画)が多いから、どこかで使ってもらえる」と云われた。山城はその先輩のアドバイス通り乗馬を覚えたら、テレビドラマ『白馬童子』の主演話が舞い込んできたことを語っている[11]。
バラエティ番組に出演する時の衣装は、1980年代はノーネクタイのシャツ、ジーンズにブルゾン、1980年代後半からは、黒のタートル又はカットソー、黒のパンツにダブルのジャケットを羽織って袖を捲るのが定番となっていた。上島竜兵がよくバラエティ番組で山城の物真似をしており、時折、衣装のポイントを語っていた。テレビ朝日系深夜番組「ナイナイナ」では「ファッション山城」として山城の服飾センスを検証する企画も放映された。また、1982年頃から眼鏡をかけるようになり、フレームはきまって黒の細身のタマゴ型であった。
芸能の歴史と部落差別問題について詳しく、著作もある。
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