| (国旗) | (国章)[1] |
| 公用語 | 日本語(慣例上) |
|---|---|
| 首都 | 東京都(慣例上)[2] |
| 最大の都市 | 東京特別区 |
| 形成 | 3~4世紀に統一国家形成(建国記念の日とされる紀元前660年2月11日等諸説あり)[6] |
| 通貨 | 円(JPY) |
| 時間帯 | UTC +9(DST: なし) |
| ISO 3166-1 | JP / JPN |
| ccTLD | .jp |
| 国際電話番号 | 81 |
日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)は、日本列島及び周辺の島々を領土とする海洋国家である。
目次 |
「日本」という国号の表記は、太陽崇拝と相俟った自国中心的発想に基づくもの、また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる[1]。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」ないしは「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。他に法律などで正式な国名を規定していない国としてはスペインなどが挙げられる。
「日本」の表記が定着する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国・倭」と称される国家があった。新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭国」と「日本国」とはどのような関係かというと、日本書紀によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[2]。旧唐書は、「倭国」と「日本国」を併記した上で、日本国は倭国の別種とし、倭国が日本国に改名した可能性と元小国の日本が倭国を併合した可能性について記している。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の安倍氏に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただしそれを推定する見解は2説に絞られる。第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[3]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[4][5]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である[6]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[7]。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[8]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。後代に成立した『旧唐書』[10]、『新唐書』[11]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている[12]。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[13]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、事実なら日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[14]。
『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[15]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[16]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[17]。
「にっぽん」、「にほん」と読まれる。日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[18]。雅語で「ひのもと」と読むこともある[19][20]。
「日本」の国号が成立する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。日本書紀は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとするが、旧唐書など、これを疑う立場もある[21]。
同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[22]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。平安時代の仮名表記では、促音・濁音の区別が無かったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。ここから「ニホン」の読みが起こったと考えられる。しかし、日本語のハ行音は、P音 → F音 → H音と変化したと考えられ[23]、江戸時代以降にH音が定着したので、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代に「ニッポン」ないし「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代の後期に「ニホン」と読むようになったと考えられる[要検証]。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[24]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[25]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
その後、明治に入っても「ニッポン」「ニホン」が統一されない中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したが、不完全に終わった。2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した[18]。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)、「ニッポン放送」「アール・エフ・ラジオ日本(にっぽん)」などがある一方、「NIHON」表記を用いる例は、日本大学、日本航空、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本オリンピック委員会などがある。なお、(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、以下の通り。
古くから多様である。
| 日本の歴史 |
|---|
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。が、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは倭国と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[53]。
時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から昭和20年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である[54]。
日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、他の東アジア地域と異質な要素を持つ独自の文化・社会・政治体制を発達させた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。この中でも最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。同時期まで、ツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を失う。その後間もなくヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。
成立当時の日本の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が領域に組み込まれたのは、平安時代後期に入ってからである(延久蝦夷合戦)。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
10世紀から12世紀に掛け、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[55]。室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ。
14世紀から15世紀までの時期には、社会の中世的な分権化が一層進展したが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は、中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻して、奄美群島を直轄地にし、沖縄諸島及び先島諸島(宮古列島及び八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた[56]が、その後も琉球王国は、日本・中国への両属を続けた。
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。
明治維新に伴う近代化により、近代的な国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年(明治8年)に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876(明治9)年に小笠原諸島の領有を宣言[57]し、また、琉球処分を通じて南西諸島方面の実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。
自由民権運動を経て1885年(明治18年)に内閣制度を確立し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[58]。
19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年(明治43年)に韓国併合が実施された。1919年(大正8年)にパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟からの委任を受けて南洋群島を統治することとなった。大正時代に大正デモクラシーが起こり、政党政治や男子普通選挙が実現した。
1930年代に中国東北部への侵略を強め[59]、「満洲国」を建国して一定の支配権を得るに至り、軍部が台頭した[60]。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国を始めとする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、最終的に1945年(昭和20年)の第二次世界大戦(十五年戦争・アジア太平洋戦争・太平洋戦争・大東亜戦争)の敗北によって破局に至った。
そして、アメリカ・イギリスなどの連合国により、史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを失った。占領下に国制の改革が進められ、憲法改正を行って日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)の平和条約によって全権を回復し、戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、世界有数の経済大国となった。また、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年(昭和43年)に小笠原諸島、1972年(昭和47年)に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。
1970年代以降は先進国の一員として国際的役割を果たし、多くの発展途上国で成長モデルとして目標にされた。21世紀に至り、高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が深刻化。中国・インド・ブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、欧米や日本などの先進諸国は相対的に不利な立場に立たされている。
国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。
『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[61]。
公的には、この神武天皇即位紀元をもとに、1966年(昭和41年)、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国記念の日」に定められた。しかし、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もある事から神話と見られ、事実でないとするのが戦後の大勢である。しかし実在論もあり、議論は続いている。また戦後、皇紀の使用は、一部を除き殆ど無くなった[62]。
建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還が為されて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。が、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。
詳細は「日本の地理」、「日本の山一覧」、および「都道府県の面積一覧」を参照
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった[63]。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。
日本の領土はすべて島から成っている。6852の島(本土5島+離島6847島)[64]から成る島国である。
アジア・東アジアの中でも特に東方にあり、ユーラシアの東端にあたるため、欧米から極東・東洋などとも呼ばれる。全体的に弓形状であり、全面積は約37.8万km²(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第61位である。国土の約70%が山岳地帯であり、約67%の森林率である。
太平洋の北西部にある領土は、本州・北海道・九州・四国などから成る日本列島を中心に、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、及び北東に位置する北方四島(北方領土)など、離島を多く含み、全体として弧状列島を形成する。
周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。地上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の黒潮、対馬海流、寒流の親潮、リマン海流が流れる。
領土問題のある地域が数箇所存在する。日本国政府が日本固有の領土とみなしている北方領土はロシアに、島根県に属する竹島は韓国に、それぞれ実効支配されている(北方領土問題は1945年、竹島問題は1952年以降)。その他、1968年以降、中国と台湾が、沖縄県石垣市に属する尖閣諸島の領有権を主張している。
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発な事から火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多い事も火山の恵みと言える。
河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万km²、排他的経済水域を入れて約447万km²であり、領土のみの面積の11.7倍にあたる[65]。
詳細は「日本の哺乳類一覧」を参照
詳細は「日本の野鳥一覧」を参照
詳細は「日本の淡水魚一覧」を参照
詳細は「日本の環境と環境政策」を参照
詳細は「日本の地域」を参照
都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。また、一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、特例市に定められている。他にも、市町村や、町村をまとめた郡がある(全国市町村一覧参照)。
詳細は「日本の市の人口順位」、「都市圏 (総務省)」、および「都市雇用圏」を参照
| 順位 |
都道府県 |
市(区) |
法定人口 |
推計人口 |
増減率(%) |
種別 |
推計人口の 統計年月日 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 東京都 | 特別区部 | 8,489,653 | 8,965,589 | +5.61 | 特別区部 | 2012年1月1日 | |
| 1 | 神奈川県 | 横浜市 | 3,579,628 | 3,691,240 | +3.12 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 2 | 大阪府 | 大阪市 | 2,628,811 | 2,671,680 | +1.63 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 3 | 愛知県 | 名古屋市 | 2,215,062 | 2,267,374 | +2.36 | 政令指定都市 | 2011年12月1日 |
| 4 | 北海道 | 札幌市 | 1,880,863 | 1,906,141 | +1.34 | 政令指定都市 | 2011年12月31日 |
| 5 | 兵庫県 | 神戸市 | 1,525,393 | 1,544,595 | +1.26 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 6 | 京都府 | 京都市 | 1,474,811 | 1,473,017 | -0.12 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 7 | 福岡県 | 福岡市 | 1,401,279 | 1,482,082 | +5.77 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 8 | 神奈川県 | 川崎市 | 1,327,011 | 1,431,409 | +7.87 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 9 | 埼玉県 | さいたま市 | 1,176,314 | 1,230,586 | +4.61 | 政令指定都市 | 2011年12月1日 |
| 10 | 広島県 | 広島市 | 1,154,391 | 1,178,870 | +2.12 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 11 | 宮城県 | 仙台市 | 1,025,098 | 1,052,476 | +2.67 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 12 | 福岡県 | 北九州市 | 993,525 | 974,197 | -1.95 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 13 | 千葉県 | 千葉市 | 924,319 | 962,988 | +4.18 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 14 | 大阪府 | 堺市 | 830,966 | 842,669 | +1.41 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 15 | 新潟県 | 新潟市 | 813,847 | 812,536 | -0.16 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 16 | 静岡県 | 浜松市 | 804,032 | 798,638 | -0.67 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 17 | 熊本県 | 熊本市 | 727,978 | 736,545 | +1.18 | 中核市 | 2012年1月1日 |
| 18 | 静岡県 | 静岡市 | 723,323 | 714,122 | -1.27 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 19 | 神奈川県 | 相模原市 | 701,630 | 719,791 | +2.59 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
| 20 | 岡山県 | 岡山市 | 696,172 | 711,449 | +2.19 | 政令指定都市 | 2012年1月1日 |
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年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
男女別 [単位 千人]
100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在している。国民の多くは、これらの大都市、又は、その周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした南関東の人口は、日本の人口の約4分の1を超え、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。しかし近年では、特に首都圏では、東京都心部の土地の値段が下落し都心回帰の現象も見られる。
2010年10月1日に行われた国勢調査の速報数を集計した結果、人口総数が500万人を超過する上位9都道府県は次の通りである[85]。
詳細は「日本人」、「大和民族」、「日本の民族問題」、および「日本の外国人」を参照
ヤマト王権の側から書かれた古代史には、九州地方に熊襲、東日本に蝦夷など、文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは、徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語との比較言語学的な関連が見出せないことから、アイヌと大和民族との関連について様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ、徐々に中世頃から分化したものと考えられている。
日本国籍を有さない外国人や日本列島外にルーツを持つ帰化した日本人が200万人程在住している[86]。現在[いつ?]、在住人口の約1.5%が外国人登録者である。中国籍、韓国籍、朝鮮籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。近年[いつ?]の外国籍の増加の背景には、1990年(平成2年)の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人の子孫の日本での就労が自由化された事が大きく、更に結婚の国際化などもある。その他、戦前の亡命ロシア人の子孫も少なくない。
韓国籍、朝鮮籍、及び台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国もいる。更に、韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民[87]が30万人程いる[要出典]。
1895年(明治28年)に台湾を、1910年(明治43年)に朝鮮半島を併合後、太平洋戦争敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない[88]。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号[89])。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる[90]。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく[91]、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とはことなりオランダや明遺臣、清朝の植民支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった[92][93]。
朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向にあり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された[94]。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった[95]。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。
終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件、保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となったが、そのまま特別永住者として日本に在住し続けた。現在では、日本生まれが多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者も多く[86]、在日コリアンは減少を続けている。近年では朝鮮籍から韓国籍に登録を変更する者が多数となっている。
アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。近年[いつ?]では日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの「研修労働者」、不法入国(滞在)労働者の人権問題などが発生している。
日本人の起源は、古くから日本列島に居住していた、いわゆる縄文人を基層に、ユーラシア大陸から移住した人々が融合して形成されたものとの説が近年有力だが、詳細については諸説あり、定かでない。自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」・「日本民族」とも言う。南西諸島の人々は、縄文時代から弥生時代にかけて九州から南下した人々が中心となっているとされ、言語的にも本土の住民とルーツを同じくしていることは明らかである[要出典]。
またアイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌを参照)。
古墳時代、北東北地方を除く本州・四国・北九州の人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに連合し、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家の確立に伴い、和人の文化的一体性が確立された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)・南九州(熊襲)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島の全域が和人の勢力圏に置かれた。
「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部に居住したアイヌや、琉球王国を樹立した南西諸島の人々は、弥生時代以降、本土と交流を持ち続けつつも、江戸時代まで政治的には本土の政権の支配下には入らず異なる歴史を歩んだ経緯がある。現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されて郷土文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住して、欧米系先住民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人の社会に溶け込んでいった。
詳細は「日本の言語」、「日本における漢字」、「国語国字問題」、「日本語」、「日本語の表記体系」、および「日本語の方言」を参照
日本には公用語を明示する法令が存在しない[96]が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などの使用も認められているが、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である[97]。
近代以前の日本語は、文語と口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになったといわれる[98]。
日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。
日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある[99][100]。
その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語である英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。多くの日本人にとって、日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また日常生活や職務上での必要性が低いことなどから、堪能な者は比較的少ない。
大学で学ぶ第二外国語としては、主にドイツ語・フランス語が選択されてきたが、近年は中国の経済発展に伴って中国語の選択が増えた。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であるが、韓国朝鮮系の住民を除いて学習者は多くなかった。近年、韓国の大衆文化が盛んに輸入されていることに伴い、学習者が増加傾向にある。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。安全保障上の理由から学ばれている言語は、同盟軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。
外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人の一部が用いる朝鮮語(在日朝鮮語)、在日中国人・在日台湾人を中心に約60万人が用いる中国語・台湾語、日系ブラジル人を中心に約30万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。
詳細は「日本法」、「日本の刑事司法」、「日本の民事司法」、「日本の政治」、および「日本政治史」を参照
日本国憲法上、同憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲立法審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。
「ポツダム宣言」も参照
第二次世界大戦の後、1946年(昭和21年)11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日施行。改正されたことはない。硬性憲法に分類される。
日本国憲法は、憲法第13条・個人の尊厳(個人の尊重)をその根本に置き、次の三つを三大原理とする。
統治機構は、憲法上、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、それぞれ分配する三権分立を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。
長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた9条を巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。
詳細は「象徴天皇制」を参照
天皇は、第二次世界大戦後から現在まで、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と位置づけられ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされる(同条)。その地位(皇位)は、世襲によって受け継がれ、国会の議決する皇室典範の定めるところによって継承される(憲法第2条)。憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項)。但し、国事行為の他、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。 また、日本国政府は「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」としているが、日本国憲法には明記されていない。[101]。明治期に制定された大日本帝国憲法には、立憲君主制であることが明記されていた。
国会は、衆議院と参議院との二院からなる二院制(両院制)の議会である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強い権限が与えられている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短いため、より民意を反映しているため、と説明される。
内閣は、首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣からなる合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。国会が指名した人物は、天皇により儀礼的・形式的に任命され、内閣総理大臣に就任する。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項及び69条を参照のこと)。
国会では、国会議員のみが法案提出権を持つ。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する政府提出法案(閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に置かれる省庁が国会の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。なお、政治家になる家系が代々しっかりとした地盤を持って選挙活動を行うため、いわゆる世襲政治家が多い。
地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体が担う。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。
日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。死刑制度のあり方を巡っては、憲法の制定の当時から議論がある[103][104][105][106][107][108][109][107]。
戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しないことになっている。
実際は、テレビ放送について政府が発行する免許が必要である。NHKの予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。一方、テレビ・新聞の側においても、記者クラブ制度によって一部の大手マスメディアのみが政府からの情報を受けるメリットを享受している。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、かような大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、無用な反発や軋轢を避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。
なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、11位(2010年〔平成22年〕)である。デンマーク、リトアニアと同位。上位にはフィンランド、アイスランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイスなどの国がいる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていることを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた[110][111]。
詳細は「日本の国際関係」および「:Category:日本の国際関係史」を参照
同盟国との関係を重視している。世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合を中心に各国と幅広い外交を行い、援助や貿易を行っている。伝統的に地理的に近い東アジア各国と強い関係を保ってきた。更に、太平洋戦争敗戦後に日本の占領を担い、解除後も多大な影響力が行使されるアメリカ合衆国(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。東南アジアやオーストラリア、西ヨーロッパ各国との関係も深い。
国際連合 : 日本はかつて国際連盟を脱退し、連合国(国際連合)(United Nations)を相手に第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在も敵国の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し、加盟を果たした。これまでに非常任理事国として最多選出されている。また、敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を担うという矛盾した状態になっている。国連改革の一環としてドイツ、インド、ブラジルなどと常任理事国の拡大を訴えている。日本人職員の数は、少ない。日本の知識層の多くは、多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受け切れていないと指摘している。
長く、国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与する、という慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが、戦力を出さなかった。が、近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。
東アジアでは、古来、地理的に近い中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治以降、西洋文化を取り入れて発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、明治維新以降である。かつて日本領であった台湾や韓国は、現在でも重要な貿易相手である。一方、北朝鮮に対しては、日本は国家承認しておらず、国交もなく、経済制裁を行っている。日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、北朝鮮と中国とは同盟関係にあり、中国とロシアも協力関係にある。
東南アジア諸国とは、基本的に友好関係を構築しており、タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との自由貿易協定(FTA)の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。以下のように、各国との関係は基本的に良好な状態にある。
オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用している訳でなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
「日中関係史」も参照
中華人民共和国 : 日本は1972年日中共同声明及び1978年日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。改革開放政策の後、経済的な成長を遂げて多くの日系企業が生産拠点を持ち、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[112]。靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年(平成20年)6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての自衛隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年(平成22年)以降、経済規模で日本を抜いて成長し、無視できない存在となっている。
「日朝関係史」も参照
北朝鮮 : 現在、国交が無い。北朝鮮は、韓国併合に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本政府は、日韓基本条約に基づいて韓国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を行う方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に行っている。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。
「日韓関係史」も参照
大韓民国 :建国当初より反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国を支援するために掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した。また、日本に潜入した工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件が起こされている。李承晩独裁政権を打倒した朴正煕は国民の反発を押しきって日韓条約を結び、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠していたために後に植民地支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。韓国では近年まで日本の大衆文化禁止政策が続けられていたが、金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を持つ人々の増加も見られた。盧武鉉政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強い姿勢で臨んだ。李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見えていない。 他方、K-POPや韓国ドラマなど韓国の大衆文化が日本で流行する韓流現象がある。これに伴い韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつある[113][114]。
「日台関係史」も参照
中華民国 : 台湾は、日清戦争で日本に割譲されて以来50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で共産党軍に敗北した中国国民党が1990年代まで独裁を敷いてきた。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中台外交の基本姿勢としている。2011年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、政治的実権を握っていた少数派の外省人は、反日姿勢が強いと言われていたが、1990年代には本省人である李登輝が総統となるなど融和が進んだ。安全保障において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米同盟を持つ日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も起きたが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。
「日泰関係史」も参照
タイ : タイ王室と皇室との関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている[115]。
フィリピン : フィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。
ベトナム : ベトナムは、ベトナム戦争において日本と同盟関係にあるアメリカ合衆国と交戦した共産党独裁政権であるが、ベトナム戦争終結前の1973年には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の常任理事国入りをどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である[116]。
シンガポール : 日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。
カンボジア : 日本からは経済面での支援や地雷撤去の活動なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。カンボジアは日本の常任理事国入りについて不変の支持を行っている[116]。
インドネシア : 独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近した。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、多極外交を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助(ODA)はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画[117]など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援[118]などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。
「日米関係史」も参照
アメリカ合衆国 : 軍事・経済・政治すべてにおいて緊密かつ重要な関係を築いている。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争(第二次世界大戦)では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦った末に降伏し、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍に占領された。7年の占領時代を経て主権を回復したあとも、日米安保条約に基づき基地用地および予算を提供し、日本は冷戦終結後の現在もアメリカ合衆国の軍事的保護下にある。これについては沖縄などで縮小運動が起きることがあり、しばしば政治的な課題として浮上する。日本国内では日米安保条約が日本の安全保障や外交の自主性を損なっていると批判されることもあるが、日本政府は中華人民共和国の軍事力に対する警戒感から同盟の強化をはかる考えである。さらに、アメリカ合衆国の意向は、日本の経済政策や規制改革などの内政にも「外圧」として大きな影響力をもつ。また、犯罪人引渡し条約を結ぶ数少ない国の一つである。
「日豪関係」も参照
オーストラリア : オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言に調印した。これにより、日本にとって安保分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。
「日露関係史」も参照
ロシア : 日露関係は断続的に関係が深まる時期をはさみつつも、対立の時期が長い。これはロシアが伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。満州・朝鮮半島の支配権をめぐって1904年(明治37年)に始まった日露戦争や、1917(大正6年)年に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵、終戦直前にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦などが起こってきた。日本のポツダム宣言受諾による終戦後も南樺太と千島列島への侵攻を続け併合し、日本人を捕虜として連行してシベリア抑留するなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続いてきた。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、現在の両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、その関係は円滑ではない。
詳細は「北方領土問題」を参照
詳細は「東シナ海ガス田問題」を参照
詳細は「尖閣諸島問題」を参照
詳細は「竹島 (島根県)」を参照
詳細は「日本海呼称問題」を参照
「与那国空港#防空識別圏問題」も参照
南アジア各国とは友好関係を保っている。日本は被爆国であるため、核実験を行ったインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。
中央アジア諸国は、かつてシルクロード経由で日本へも文化的な影響を及ぼしていたが、現在の人的な関係は乏しい。また、経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。
西アジアは主要な原油供給元であり、経済的に密接な関係を保っている。しかし文化的交流は比較的乏しい。但し、宗教的な対立要因が無いため、住民の対日感情は比較的良好とされる。
第二次世界大戦以降、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構諸国と間接的な同盟関係にある。また、皇室は、イギリスやオランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる[122]。
インド : 今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年(平成20年)10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[123]。さらに2010年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)を締結することで大筋合意した。これが達成されれば、日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で、10年以内に関税がゼロになる。
パキスタン : 1998年(平成10年)の地下核実験から2005年(平成17年)4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。
バングラデシュ : 世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。
アフガニスタン : 日本は、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている。
イスラエル : 日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。
フランス : 日仏関係は、政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。フランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。
ドイツ : 日独関係は、日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。科学技術・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は、現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本とドイツは交戦国となり、勝利した日本はアジア太平洋におけるドイツの利権を獲得する。第二次世界大戦で日本とドイツは対ソ連を意識して日独伊三国軍事同盟を結んだが、同盟はついに実効的なものとはなり得ず、両国は互いに不本意ながら米英を敵に回し敗北するという結末となった。戦後は、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国として平和的な関係となり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となった。さらに、政治の面でも共に常任理事国を目指すG4のパートナーとして行動する。
イギリス: 日英関係は、江戸時代前期の三浦按針に始まり、途中日本の鎖国や第二次世界大戦による中断をはさみながら長く続いている。特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭の日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年、両国はロシアへの対抗として日英同盟を結び、日露戦争や第一次世界大戦、シベリア出兵において相互に支援を行った。しかし、日中戦争と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は、両国はアメリカ合衆国を介した間接的な同盟関係となり、経済・文化面でも深い関係を築いている。
中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。
メキシコ : 中米諸国の中で最も関係が深い。明治の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦しめられてきた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる永田町に在るのは、メキシコ大使館のみである。多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。
ペルー : 1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をキッカケに修交が始まった。多くの移民が渡り、ラテンアメリカで二番目に日系人口が多く、1990年代に日系人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化したが、失脚の後、日本に亡命した。
アルゼンチン : 1898年(明治31年)、ロシアとの戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が始まった。また、マルビーナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカやイギリスなどからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を行わないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。
ブラジル : 約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり、政治・経済のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を保つ。特に、Jリーグが始まって以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、G4として共に常任理事国を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。
アフリカ諸国は、日本とは歴史的に関係が薄く、観光地としてもエジプトなどの一部を除いて大きな人気があるわけでもない。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係に終始している。
1993年(平成5年)から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development)を開始した。
近年、アフリカ諸国に大使館を増やすなど関係強化に乗り出している。その背景として、中国が現地に在住の華僑などを活用してアフリカ諸国との関係強化を行っている情況がある。これは、資源確保や国連での票固めなどが目的であると指摘されている。
サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国を日本に招いた試合が行われており、良好な関係を築いている。
南アフリカ共和国 : アパルトヘイトで世界から孤立していた時代にも、多くの日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に、日本人は同国から「名誉白人」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。
詳細は「日本の警察」、「日本の犯罪と治安」、および「日本の刑事司法」を参照
警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会・警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本から発祥の交番の存在が地域の安全を担う。SAT等をも擁する文民警察である。
他に、沿岸警備隊たる海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊たる機能の一部を担う法務省入国管理局(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、或いは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。
銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国際連合薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い[125][126][127][128][129]。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。
詳細は「日本国憲法第9条」、「日本の軍事」、「防衛省」、「自衛隊」、「自衛隊法」、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、および「日米地位協定」を参照
日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する[130]。また、自衛隊は、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣及び防衛大臣による文民統制の下、防衛省によって管理される。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁に対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。
大日本帝国憲法の統帥権を根拠に日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。
第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年(昭和25年)、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出しているが、軍隊や民兵を相手に直接、交戦した経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。
(イギリスの経済紙・エコノミストの調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが平和の指標として24項目を数値化する)「世界平和度指数」の2009年(平成21年)度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている[131][132]。ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。
以下のような政策・傾向を継続している。
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の統計によると、以下の通りである。
このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。
詳細は「自衛官」、「即応予備自衛官」、「予備自衛官」、「予備自衛官補」、「防衛省職員」、「自衛隊員」、「防衛書記官」、および「防衛部員」を参照
詳細は「陸上自衛隊の装備品一覧」、「海上自衛隊の装備品一覧」、「航空自衛隊の装備品一覧」、および「武器輸出三原則」を参照
冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、自衛隊の部隊も北海道など北方に重点が置いて配置されていた。冷戦はソ連崩壊によって終結し、現在は軍拡を続ける中国、水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮の脅威の方が増している、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。防衛白書も、近年は中国・北朝鮮に対する脅威を主張している。しかし、根拠地の移転には広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。
詳細は「日本の文化」を参照
縄文時代以前のはるか昔、日本人の祖先が北方から渡来して以来、近隣の文化を取り入れつつ独自に発展した。文化については南方からの伝搬も想定され、日本の基層文化には北方系とみられる要素と南方系とみられる要素が混在している。
4世紀頃から9世紀頃まで、渡来人により、大陸の文化が伝わった。日本も遣隋使・遣唐使や留学生を派遣し、積極的に中国の文化を取り入れた。朝鮮半島や渤海との交流も続いていた。
大陸との往来が減った10世紀頃から、これらの輸入された東アジア文化が在来の文化と融合し、日本に特有の国風文化へと発展する。平安時代の文化は貴族や寺院によって担われていたものが現代にまで伝わり、王朝文化の中から生まれた和歌や王朝物語は後世の文芸の規範として大きな影響を残した。平安時代末期には仏教信仰の深まりを背景に「幽玄」などの中世的な美意識が生まれた。
12世紀頃、北宋との貿易によって紹介された禅宗が禅に発展し、喫茶の習慣も禅宗の寺院から上層階級に定着する。工芸や建築などの技術も宋からもたらされた。南北朝時代には戦乱の世を背景に華麗で奇抜な美を尊ぶ「ばさら」が流行した。室町時代には、武士と貴族の文化が融合した北山文化や東山文化が花開く。「雅」や「わび・さび」といった日本的な美意識が確立し、猿楽(現在の能楽)や茶の湯(現在の茶道)、枯山水などの日本庭園や書院造などの建築が生み出された。地方文化が発展し、京都の文化が日本各地にもたらされた。
16世紀の半ばからポルトガル人やスペイン人などヨーロッパの人々が来航し、キリスト教や鉄砲が伝えられた。日本の文化は初めて西洋文明に直接接触し、これを南蛮趣味として日本的な形に変化させ、旺盛な消化力を示した。しかし、後の鎖国により西洋文化の受け入れは出島を通じたオランダとの交易に限定された。17世紀以降の江戸時代には、中世の戦乱の時代が終わり、鎖国による閉鎖された環境の中で再び独自の文化が発展した。文化の大衆化が進み、京都・大阪・江戸の三大都市を中心に庶民的な都市文化(歌舞伎、浄瑠璃、戯作、俳諧、浮世絵、大相撲など)が繁栄する。また、国学により日本独自の価値観や文化を見直す風潮も生まれた。この間、アイヌの文化は日本の周縁文化圏として独自の様相を見せる。また、琉球は本土との交流を持ち続けつつも、日本の他の地域とは異なった独自の道を歩む。この状況は、明治維新によって一応の区切りがつく。
明治維新の後、近代的な独立国家としての体裁を整えた。廃仏毀釈や文明開化に見るように国策として伝統文化が抑圧され、欧米の文化が急速に取り入れられた。特に都市部で衣服、食事、建築などさまざまなものの欧米化が進み、庶民の生活に大きな影響を与えた。一方、日常生活では、伝統的な生活習慣もまた根強く残り、特に地方では依然として伝統的な文化が維持されていた。それが解体されるのは、第二次世界大戦後の高度経済成長以降である。大正期には、経済の好景気などを受け、アメリカ合衆国の文化を取り入れた映画やスポーツなどの享楽的な文化が流行した。昭和にかけて都市部では洋風の生活習慣も浸透していく。しかし、第二次世界大戦の戦時下では欧米風の文化が厳しく制限され、伝統文化も政府に統制された。
1945年(昭和20年)に政府がポツダム宣言を受諾すると、アメリカ軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部が日本の政治改革を進め、それと共にアメリカ文化も日本人に受け入れられた。冷戦下の独立とともに西側諸国に組み入れられた日本は、アメリカ流の生活・文化を目標とするようになる。
高度経済成長期に至ると、従来の生活習慣も大幅に変わり、伝統的な文化の多くが日常の場から姿を消していったが、自信をつけた日本人は、自らの文化を再評価するようにもなる。例えば、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)の太陽の塔は、縄文の芸術をモチーフにしたものとされる。日本映画、ポピュラー音楽、大衆文学などの大衆文化の輸出も盛んに行われ、東アジア諸国や欧米の文化に大きな影響を与えるようにもなった。特に、日本製、あるいは日本風の漫画やアニメやコンピュータゲームなどが世界に発信され、様々な摩擦を乗り越えながら、若い世代を中心に広がっている。
詳細は「国民の祝日」、「国民の祝日に関する法律」、「国民の休日」、および「振替休日」を参照
| 日付 | 日本語表記 | 備考 |
|---|---|---|
| 1月1日 | 元日 | |
| 1月第2月曜日 | 成人の日 | 移動祝日 |
| 2月11日 | 建国記念の日 | |
| 3月21日前後 | 春分の日 | 移動祝日(黄道上で太陽が黄経0度・春分点を通過する日) |
| 4月29日 | 昭和の日 | 旧:みどりの日(~2006年) |
| 5月3日 | 憲法記念日 | |
| 5月4日 | みどりの日 | 旧:国民の休日(~2006年) |
| 5月5日 | こどもの日 | |
| 7月第3月曜日 | 海の日 | 移動祝日 |
| 9月第3月曜日 | 敬老の日 | |
| 9月23日前後 | 秋分の日 | 移動祝日(黄道上で太陽が黄経180度・秋分点を通過する日) |
| 10月第2月曜日 | 体育の日 | 移動祝日 |
| 11月3日 | 文化の日 | |
| 11月23日 | 勤労感謝の日 | |
| 12月23日 | 天皇誕生日 |
詳細は「日本の宗教」、「祭」、「神仏習合」、「神道」、「日本の仏教」、「本地垂迹」、「修験道」、および「日本キリスト教史」を参照
日本の宗教の信者数は文部科学省の宗教統計調査では、神道系が約1億700万人、仏教系が約8,900万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人とされている。
日本では、日本固有の信仰である神道と外来の思想である仏教が広く信仰され、半ば融合した神仏習合として分業的に共存した。神道と仏教は明治維新後の神仏分離を経て、明確に区別されたが、神仏習合は各地に残る山岳信仰などにその名残をとどめている。カトリックやプロテスタントなどのキリスト教徒も存在するが、洗礼を受けた正式な信者は、総人口の1%を超えず、教会も社会に強い影響力を有さない。いっぽう、キリスト教徒である著名な文学者や思想家など文化人の社会的な影響は、必ずしも小さくない。しかし、クリスマスなどいくつかの儀式・祭礼は、しばしば本来の宗教と関係なく世俗的な年中行事として広く受容される。ムスリム(イスラム教徒)やユダヤ教徒は、在日外国人を除けばわずかである。
詳細は「日本のスポーツ」を参照
詳細は「日本の新聞」、「日本のラジオ放送局」、「日本のテレビジョン放送局」、および「日本における衛星放送」を参照
詳細は「:Category:日本の食文化」、「日本料理」、「和菓子」、および「日本の郷土料理」を参照
豊かな漁場や肥沃な農地に恵まれ、良質な食材の入手が可能である。良質で豊富な飲料水にも恵まれ、伝統的な和食の他にも世界中の食文化を取り入れた。世界で最も食文化の豊かな地域の一つと言える。ただし、日本の人口の多さから、カロリーベースの食料自給率は低く、食料輸入国である。
現在、いわゆる少子高齢化が進む。
世界保健機関(WHO)の統計(2010年〔平成22年〕)によると、WHOに自殺統計を報告する104か国の中における自殺率の順位は、高い方から第6位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の国々の中では、第1位である。
政府は、この先進国でも極めて高い自殺率を重要な問題と認識し、その原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。但し、諸国と比較し、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘される。2006年(平成18年)に自殺対策基本法が制定されたが、基本的な枠組みを規定するに止まり、具体的な制度や政策の規定に乏しい[151]。
詳細は「日本の教育」、「日本教育史」、および「教育基本法」を参照
詳細は「義務教育#日本」、「初等教育」、および「中等教育」を参照
1990年(平成2年)時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。
詳細は「高等教育#日本における高等教育」および「基礎科学」を参照
「日本人のノーベル賞受賞者」も参照
世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。国際特許の出願数は、アメリカ合衆国に次ぐ世界第2位、特許収入もアメリカに次ぐ世界第2位の黒字国である。
詳細は「日本の宇宙開発」、「宇宙航空研究開発機構」、および「宇宙基本法」を参照
詳細は「日本の経済」を参照
資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2010年時点で、国内総生産 (GDP) がUSドル時価換算の為替レートで世界第3位(購買力平価 (PPP) で世界第3位)に位置する経済大国である。一人当たり GDP は2010年時点で、USドル時価換算で世界第16位、購買力平価 (PPP) で世界第24位である。
「国の国内総生産順リスト (一人当り為替レート)」および「国の国内総生産順リスト (一人当り購買力平価)」も参照
通貨である円 (¥, yen, JPY) は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年(昭和39年)に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7・現在のG8)にも1975年(昭和50年)の第1回から参加するなど、その動向も世界経済に強く大きな影響を与える。[要出典]
明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年(昭和43年)、国民総生産 (GNP) ベースでアメリカ合衆国に次いで第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年(昭和49年)のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。 1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろんのこと、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2009年までの日本の平均経済成長率は0.8%)。
「日本車」も参照
2002年(平成14年)時点の主要な輸出の相手国は、金額ベースで28.9%を占めるアメリカ合衆国、中華人民共和国 (9.6%)、大韓民国 (6.9%)、香港 (6.1%)、シンガポール (3.4%)である。アメリカ合衆国、東アジア、東南アジアへの輸出を合わせて55%を占める。輸入の相手国は、アメリカ合衆国 (18.3%)、中国 (17.4%)、韓国 (4.6%)、インドネシア (4.2%)、オーストラリア (4.2%) であり、以上で48.7%を占める。貿易収支は、黒字(2004年(平成16年)に約14兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車 (22.3%)、機械類 (21.6%)、電気機械 (20.5%)、鉄鋼 (3.7%)、化学薬品 (3.1%) の順である。主な輸入品は、電気機械 (12.2%)、機械類 (11.2%)、原油 (10.8%)、衣類 (5.2%)、天然ガス (5.2%) である[158]。
日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年(平成18年)にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、2007年(平成19年)現在、それ以上の金利引き上げに至っていない。
また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり[159]、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。
詳細は「日本の交通」を参照
「日本の企業一覧 (空運)」、「日本の企業一覧 (陸運)」、および「日本の企業一覧 (海運)」も参照
古くから北太平洋及び北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。
「日本の航空機産業」も参照
「海運#日本の海運会社」および「造船#日本の造船史」も参照
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観光
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