| 横浜ベイスターズ | |
| 会社名 | 株式会社横浜ベイスターズ |
|---|---|
| 創設年度 | 1950年 |
| 所属リーグ | |
| セントラル・リーグ | |
| 歴代チーム名 | |
| 本拠地 | |
| 横浜スタジアム(神奈川県横浜市) | |
| 収容人員 | 30,000人 |
| フランチャイズの遍歴 | |
| 永久欠番 | |
| 100:貢献著名人 | |
| 獲得タイトル | |
| 日本一(2回) | |
| 1960 | 1998 | |
| リーグ優勝(2回) | |
| 1960 | 1998 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 日本シリーズ出場(2回)(太字は勝利した年) | |
| 1960 | 1998 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 若林貴世志(TBSHD 取締役相談役) |
| 運営母体 | 東京放送ホールディングス (TBSHD) |
| 監督 | 尾花高夫 |
横浜ベイスターズ(よこはまベイスターズ、Yokohama BayStars)[1]は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。
二軍(イースタン・リーグ所属)の球団名は湘南シーレックス。同県横須賀市にある横須賀スタジアムを本拠地としている他、同市内には練習場及び合宿所として横浜ベイスターズ総合練習場を有する。
横浜ベイスターズ本拠地以外の主催試合に関しては、横浜ベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。
目次 |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒231-0015 神奈川県横浜市中区尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 |
| 設立 | 1953年12月16日 (株式会社大洋松竹球団として設立) |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロ野球興行事業など |
| 代表者 | オーナー 若林貴世志 代表取締役社長 加地隆雄 |
| 資本金 | 1億円(2008年6月27日現在) |
| 主要株主 | 東京放送ホールディングス 51.54% (同社の連結子会社) フジ・メディア・ホールディングス 30.77% BS-TBS 17.69% (2009年4月1日現在) |
| 主要子会社 | ベイスターズサービス ベイスターズソフト |
| 外部リンク | http://www.baystars.co.jp/ |
| 特記事項:1954年12月11日に商号を株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団に改称。1993年4月に商号を株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ改称。 | |
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を隔し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2009年時点のもの
「放映権 (日本プロ野球)」も参照
東京放送ホールディングスが筆頭株主でありながら、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズでの対巨人戦以外の試合の中継はめったに行われない。巨人戦以外は視聴率および聴取率が取れない事にも起因している。テレビ中継は、通常はテレビ神奈川が単独で放送[15]し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社またはテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っている。フジテレビも放映権は保有しているが、現在は同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために行使しているのが現状である。ラジオ中継は、TBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系において裏送りも含めて中継している。主に、巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、巨人戦がないときに放送される[16]。
2004年から毎年夏季限定ユニフォームを採用している。いずれも8月主催試合でのホーム用のみ。
交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である。[18]
※太字は優勝達成監督
球団の永久欠番は次の通り。
横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。
1952年9月7日に西京極球場で開いた松竹との対戦(ビジター)でセ・リーグの当時の最長イニング記録である延長20回(1-2x敗戦)を戦い抜いた。
横浜ベイスターズのリーグ優勝は史上2度。大洋ホエールズ時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年のこと。この間、実に38年間ものブランクを要した。
ただ、初のリーグ優勝を果たした後、1962年と1964年の両シーズンは終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。
特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりのリーグ優勝を果たすところまでたどり着き、阪神と敵地阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。
当時大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も優勝から遠ざかることはなかったと思う」と語っている。
「荒川事件」も参照
1969年のドラフト会議での早稲田大学野球部の荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、プロ野球ドラフト史上最大の事件とされる事件。
荒川は当初入団を拒否、その後の経過の中では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するに至る。後に荒川は形式的に大洋に入団し、ヤクルトに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の被害の後遺症と言われる視力障害により早々に選手生命を絶たれる結果となった。
この事件が原因となって、大洋ホエールズ時代はもとより、横浜ベイスターズとなってからも2008年に松本啓二朗・細山田武史を指名するまで早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。
1974年-1977年のシーズンに使用されたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使用していたため、当時の国鉄の湘南電車を髣髴とさせるその配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。
このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は草薙球場でキャンプを行うなど静岡とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で慶大から入団。当時ヘッドコーチだった秋山登が「静岡名産のミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承、その結果橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。
1982年、長崎慶一(当時「啓二」)は首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズの田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。
中日にとってはシーズン最終戦となる大洋対中日戦で大洋は田尾に対し5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し田尾は五打席目で抗議の意味を込めた空振りを行った程であった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。[20]
この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合であった。この試合が行われる前の時点で中日は全日程を終了していた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいた為、中日が勝てば中日の優勝。大洋が勝てば巨人の優勝とリーグの優勝が掛かった大一番だった。
大洋は先頭打者での敬遠で走者となった田尾をあっさりホームへ返してしまうなどこの試合に大差で敗れ、中日の優勝が決まる事となった。
当然この大洋のチームの勝利よりも個人の記録を優先した行為に納得出来るファンは殆どおらず、試合後「回の先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[21]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。
抗議は一段落した後も世論はこの大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した。」「中日ファンとして素直に喜べない優勝になってしまった」等疑問を投げかけ、宇佐美徹也は著書『プロ野球データブック』で大洋の行為を糾弾した。
当時の監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として、同局の解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と、敬遠へと至った経緯を説明、「時々あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降関根と田尾との関係が修復された。
1995年、この年のオールスターゲームが横浜スタジアムで開催される事になり、ゲームを盛り上げるために当時の球団社長らが率先してファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、横浜からは佐々木主浩・駒田徳広・ロバート・ローズ・佐伯貴弘・グレン・ブラッグス・畠山準の6人が選出されたのに対して巨人・阪神の両人気球団からは1人も選ばれず、批判の的となった(他の3名はヤクルトの古田敦也と広島の江藤智、野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫や鈴木尚典に譲ることが多く、レギュラーとは言えなかったため当人たちも困惑気味だった。
試合では普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球するという珍しい光景が見られた。
「プロ野球脱税事件」も参照
1997年、プロ野球選手による脱税が発覚し、横浜からは波留敏夫、万永貴司、川崎義文、米正秀の4名が関わっている事が分かった。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱が予想されることは、優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで近鉄から中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤監督によりぶっつけ本番でスタメン復帰する。復帰当初こそ無調整の状態からなかなか結果を残せなかったが、その後調子を取り戻し7月には月間MVPに輝くなど、奮起した。当時のヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞させ、脱税事件の反省をしたのか感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
日本プロ野球でサイクルヒットを複数回達成した選手は藤村富美男、松永浩美、ロバート・ローズの3人しかいない。藤村、松永は2度達成して現役を退いた。
ローズはこれを3回達成した。1995年5月2日の中日戦で単打、2連続二塁打、本塁打、三塁打の順で、1997年4月29日のヤクルト戦で本塁打、二塁打、2連続単打、三塁打の順で達成した。3度目は1999年6月30日の広島戦。二塁打、(四球)、単打、三塁打、そして本塁打の順で安打を放ち、日本新記録となる3度目のサイクル安打を決めた。
2001年からセ・リーグの順位決定方法が変更された。勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。
その初年度の2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところが、この年は「勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定する」とリーグアグリーメントで決めていた。このため勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。この順位決定方式はシーズン中の勝利数が経過試合数が多いという理由で上位とされることがあるため、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率優先」に戻した。
2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送。現:東京放送ホールディングス〔TBSHD〕)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。
それまでの球団の身売りは球団名からユニフォームまで一新されるケースばかりだったが、横浜のケースは球団名もユニフォームもそのまま残された。[22]唯一変わったところは、ユニフォームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入し筆頭株主となった。楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再び浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社「東京放送ホールディングス(TBSHD)」に移行した事から楽天は買収を断念、反対株主の株式買取請求権を行使し、TBSHDに対し保有全株式の買取請求を行ったことにより、この問題は収束した。
2007年9月30日の横浜対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)は、NPB公式戦(一軍)では実に9年ぶりとなるダブルヘッダーとして開催されることになった。
このうち1試合分は、同カード[23]が悪天候により中止となった場合を想定して、シーズン前の日程編成の段階において試合日時と開催球場を未定としていた開催分で、実際に横浜スタジアムで雨天中止となった同カード1試合と組み合わせる形でダブルヘッダーとして編成された。
だが、当日はあいにくの雨天でダブルヘッダーは2試合とも中止となり、10月8日・10月9日の2連戦として組み直された。この2連戦も、仮に8日が悪天候の場合は9日をダブルヘッダーとして開催する予定だったが、両日とも予定通り開催された。蛇足だが、8日はマーク・クルーンの横浜在籍最後の登板試合、9日は古田敦也の現役最後の試合であった。
NPB公式戦でダブルヘッダーが最後に開催されたのは1998年のこと。パ・リーグは同年10月9日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)、セ・リーグは翌10月10日の横浜対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)である。その後ダブルヘッダーはセ・パいずれにおいても開催されておらず、21世紀になってからはまだ一度も無い。従ってNPB公式戦で最後にダブルヘッダーを主催開催したのは前述の通りパが埼玉西武、セが横浜ということになる(2009年シーズン終了時点)。
2008年5月28日・5月29日の横浜主催セ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦は、九州地方2県で開催された。
試合が行われたのは、初日の28日が大分県大分市の新大分球場、翌29日が福岡県北九州市の北九州市民球場であった。後者の福岡県はソフトバンクの保護地域であり、北九州では1989年の球団移転以来、年間数試合主催公式戦を開催しているが、セ・パ交流戦が相手球団の保護地域で開催されたのはこれが初のケースであった。
北九州でのダグアウトの割り振りは、通常の福岡ソフトバンク主催試合同様に横浜が三塁側、福岡ソフトバンクが一塁側を使用した。また横浜は同年シーズンまで、交流戦の際には「交流戦専用ユニフォーム」を着用していたが、この2連戦では通常のユニフォームを着用した。一方、ソフトバンクが北九州でビジター用ユニフォームを着用したのはこの試合が初めてであった[24]。
横浜市中心部では同年5月26日〜5月30日までの間、TICAD(アフリカ開発会議)(5月28日〜5月30日)開催のためテロ対策など警備の強化が行われる予定であったことから、日程編成の段階でこれを配慮して地方開催に振り替えたものと見られる(両試合とも横浜球団と地元JNN系列局=28日は大分放送、29日はRKB毎日放送が主催)。観客の大半はホークスファンであったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。
但し、北九州市はベイスターズの前身・大洋ホエールズの発祥地である山口県下関市に隣接しており、関門都市圏は古くからベイスターズファンが多い土地柄という背景もある(下関球場も参照)。また横浜は近年、北九州市民球場で主催の春季オープン戦を年間1試合前後開催している。
2010年6月29日と6月30日に沖縄県で35年ぶりのプロ野球公式戦、対東京ヤクルトスワローズが奥武山野球場(那覇市)で開催される予定である。
なお、ホエールズ時代の35年前に広島カープと沖縄で対戦しており横浜球団にとっては初めてではない。
1956年に明治大学から秋山登・土井淳・岩岡保宏・黒木弘重・沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するケースは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれ注目を集めた。
横浜大洋ホエールズに対しては1980年代、本拠地・横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や、当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。他球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使用し、特に連敗が込んだ時や、テレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使用された。
1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いが、実際には球団と同行の間には直接的な関係はない。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。蛇足だが、ベイスターズのオフィシャルグッズショップ「ザ・ベイスターズ」のレジでは一時期、横浜銀行が得意先に配布していたノベルティのロゴ入り金銭皿を使用していたことがある。
巨人戦に連敗し続けたあるシーズン、横浜が久々に巨人戦で勝利を挙げた夜には、当時テレビ朝日系『ニュースステーション』で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で、同カードの結果を報じるVTRに「今後の融資はお断りいたします」というオチを付けた程であった。
1990年以降は巨人戦で好成績をマークしたり、とりわけ1998年には38年ぶりのリーグ優勝を飾るなど、過去にはその汚名を返上したシーズンもあったが、2000年代で読売ジャイアンツに勝ち越ししたシーズンは2005年の1回のみ。これは2000年のみ勝ち越しのヤクルトと並ぶ。
2006年以降[25]は巨人を相手に4年連続で負け越しているほか、2008年終盤には巨人と優勝争いを繰り広げた阪神を相手に6連勝するも、対する巨人には7連敗を喫し、これが結果として間接的な「優勝へのアシスト」になってしまった[26]ことなどから、一部マスコミからはヤクルトとともに「関東軍」とも呼ばれている[27]。
高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、当初は「スポーツカートリオ」と命名された。当時解説者だった長嶋茂雄が「スーパーカートリオ」と言い間違え、それがマスコミでも広まる。球団側も積極的に修正しなかったため、結果としてこの名が定着した。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。
2006年7月16日の横浜-広島戦のイベントで、広島の川口和久-達川光男のバッテリーと打者・田代富雄と共に一回限りの復活がなされた。結果は高木・二盗死、加藤・牽制死、屋鋪・二盗成功。
チーム名がホエールズからベイスターズに変わる1993年頃、昭和44年(1969年)(昭和45年の早生まれの者も含まれるので、正確には昭和44年度)生まれの選手が多数一軍で活躍した事から呼ばれた言葉。具体的には、斎藤隆・野村弘樹・島田直也・五十嵐英樹・有働克也・盛田幸妃・進藤達哉など。彼らは当時24〜5歳の若手であり、数年後の日本一達成時にも、移籍した有働と盛田以外は全員が主力として活躍した。現在、斎藤以外は全員現役を退いたが、野村がコーチとして、有働が打撃投手として、進藤がスカウトとして、盛田が球団職員としてそれぞれ横浜に在籍している。
翌年の昭和45年生まれも谷繁元信・石井琢朗・波留敏夫・佐伯貴弘・井上純と当たり年であった。98年の日本一を達成できたのはこの昭和44,45年組の「黄金世代」といえる選手たちの働きが大きかったと言える。
詳細は「マシンガン打線」を参照
ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘(中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。
「横浜スタジアム#横浜ドーム構想」を参照
詳細は「クアトロK」を参照
横浜の4人の救援陣(木塚敦志、加藤武治、川村丈夫、マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。
「山口忠良#エピソード」を参照
「田尾安志#エピソード」を参照
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| 日本野球機構(日本プロフェッショナル野球組織) | ||
| セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | |
| 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ | 北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス | |
| イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ | |
| 北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | オリックス・バファローズ | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス | |
| 日本選手権シリーズ | オールスターゲーム | クライマックスシリーズ |
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| 独立リーグ / OBリーグ | ||
| 四国・九州アイランドリーグ | ベースボール・チャレンジ・リーグ | 関西独立リーグ | プロ野球マスターズリーグ | ||
| かつて存在したリーグ | ||
| 日本野球連盟(1936-1949) | 国民野球連盟(1947-1948) | 日本女子野球連盟(1950-1951) | グローバルリーグ(1969) | ||
| その他関連組織 | ||
| 日本プロ野球選手会 | 日本プロ野球名球会 | 日本プロ野球OBクラブ | ||
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