1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セ・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。当時は福岡県に西鉄クリッパーズと西日本パイレーツ、山口県に大洋ホエールズ、広島県に広島カープと、3県連続で球団が存在した(さらに大阪府には近鉄パールズと南海ホークス、兵庫県には大阪タイガースと阪急ブレーブス(阪急)があったため、岡山県を飛ばした形で球団が存在したことになる)。本来、社章と同じの「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[4]。
社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動している[2]。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいよう-)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツ(巨人)からベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急からは宮崎剛や今西練太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さは如何ともし難く1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。
1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[5]の該当球団となった松竹ロビンス[6]と対等合併に合意し、大洋松竹ロビンス(たいようしょうちく-)、翌1954年には通称名の洋松ロビンス(ようしょう-)に改名。
1953年度は球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つのチームを運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属チームから支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、事務所も大阪球場内に置かれた。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は松竹との合併前よりもさらに低迷した。明大五人衆の筆頭、エース秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から獲得した青田昇が三度の本塁打王を獲得するも、チームは1954年から1959年まで6年連続最下位に沈んだ。
1960年、前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄パールスから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利でストレート勝ちし、日本一に輝いた。
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、その後は優勝から遠ざかることとなる。メガトン打線と呼ばれる強力打線や、近藤和彦、クリート・ボイヤー、桑田武、松原誠、平松政次、ジョン・シピンといった名選手を擁したものの、チームとしての総合的な戦力が低く、1965年以降チームの勝率は1969年-1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。
巨人の9連覇中、大洋ホエールズは強力打線で巨人の投手陣を粉砕するが、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋だった。それも両翼89m、中堅118mという川崎球場の狭さと無縁では無い。しかし、桑田武やジョン・シピン、松原誠など主軸打者の多くが後に巨人にトレードされていった。
1976年、川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
1977年、オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。 松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、ボイヤー、シピン、ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980代に入っても山下大輔、基満男のち高木豊に鉄壁の二遊間は受け継がれてゆく。この頃「セカンドが逆シングル捕球からショートにトス、クィックにワンバウンド送球でランナーアウト」といったプレイを実際に行っていた。
1978年、国土計画の主導で横浜市中区[7]に建設した横浜スタジアムに移転[8][9]、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいよう-)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[10]など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
1980年、この年のドラフト会議では地元東海大学の原辰徳を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。1982年、長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎え、長嶋の長男一茂をドラフト1位指名したが長嶋招聘は失敗した。ジュニアと呼ばれた関根浩史投手の入団について日産野球部との交渉が破談した。1982年10月18日の田尾五打席敬遠を中継したフジテレビジョン『月曜ナイター 大洋×中日』が球団主催試合歴代トップ[11][12]となる番組平均世帯視聴率36.5%を記録した。
1985年、近藤貞雄が監督に就任。スーパーカートリオを売り出し注目された。遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず近藤貞雄監督は2年で退任。
1987年には広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、3年間で1度もAクラス入り出来ないなど、成績は振るわず。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。
1990年、須藤豊が監督に就任。チームをAクラスへ導くも、1992年開幕早々に辞任し、江尻亮チーフコーチが監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。江尻政権下で盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーを確立。
1992年11月11日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、横浜大洋ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。
しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「ベイスターズ」となった(「捕鯨をしている会社が球団名に鯨を使っているから祟られて優勝できない」という迷信もあった)。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された[13]。翌年訪米した宮澤喜一首相が、捕鯨の規制強化を求めるビル・クリントン大統領に対して「かつての日本の商業捕鯨の中心だった大洋漁業もホエールズという球団名を捨てました」と、この大洋の球団名変更を話の種にしていたエピソードがある。
1993年、近藤昭仁が監督に就任。この年から始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。高木豊や屋鋪要、市川和正ら主力選手が大量解雇された。駒田獲得資金捻出の影響などと言われる。1994年、獲得した駒田の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用して若返りを図るが、混戦のシーズンの中最下位に終わる。1995年、4位ながらも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。フロントでの近藤監督の評価は芳しくなく、この年限りで任期満了退任となった。鈴木尚典が3番レフトに定着。
1996年、大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速、5位に終わる。1997年、権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、2位で終わる。大矢監督は2年契約を終えてオフに辞任。
1998年、権藤博が監督に就任。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」が噛み合い、10月8日に38年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは西武ライオンズと戦い、第5戦では17対5で圧勝するなど、マシンガン打線が機能し4勝2敗で西武を下して日本一となっている。ドラフトでは地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが獲得できず、外れ1位で古木克明を指名している。
1999年、この年もマシンガン打線が絶好調でチームはシーズン通算打率.294(2003年のホークス.297に抜かれるまで当時の日本球界記録、現セ・リーグ記録)、ローズが153打点を記録してチーム最高打率を叩き出すものの、投手陣が三浦大輔の不調や野村弘樹・佐々木主浩の故障などで揃わず、3位に終わる。
2000年、金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、優勝争いには届かず2年連続の3位。ファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
2001年、森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。
2002年、開幕から記録的な低迷を続け[14]森監督がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる(最終勝率.363)。3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更する予定だったが、当時ニッポン放送の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送[15])への移行がプロ野球オーナー会議で承認され、球団オーナーが当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細は筆頭株主交代の節を参照)。TBSがスポーツ団体の経営をするのは国際プロレス以来である。これに際し、1978年以降ニッポン放送に独占中継権を押さえられていたため喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。同時間帯のレギュラー番組『サタデー大人天国!宮川賢のパカパカ90分!!』(現在の『パカパカ行進曲!!』)ならびに『伊集院光 日曜日の秘密基地』の好調により1シーズンで終了。 2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。
2003年、大洋時代からの生え抜きである山下大輔が監督に就任。若手重視・攻撃重視の起用がことごとく空回りし、勝率も前年を下回る.324を記録。5位からも22.5ゲーム以上離され(この年の1位と5位のゲーム差は20)、45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。
2004年は4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで5位争いを続けるが、最終戦に敗れてカープと勝率0.00092(9毛2糸)差という超僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題からオーナーが砂原幸雄からTBS副社長の若林貴世志に交代。
2005年は牛島和彦が監督に就任。不調だった投手陣が復活、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。エグゼクティブ・アドバイザーとして石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせる等新しいファンサービスを試みた。
2006年、投手陣の先発駒不足や二段モーション禁止の影響、主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4・5月に低迷。6月以降は村田修一と吉村裕基ら若手野手の台頭や、牛田成樹など若手投手の起用もあったが、負け越して最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの退任を発表。森・山下に続き、2年で監督が交代することとなった。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを設立し、活動を開始した。理事長はOBの平松政次、副理事長は畠山準が就任した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。 12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。
シーズンオフには福岡ソフトバンクホークスの寺原隼人を多村仁とのトレードで獲得、また巨人の仁志敏久を小田嶋正邦プラス金銭のトレードで獲得する。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍、門倉の人的保障として工藤公康を獲得。
2007年は大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。後半戦は連敗もあり借金を作るが、最終戦前で返済。最終戦に敗れ、勝ち越しを逃して4位に終わるが、村田修一の球団日本人選手桑田武以来31年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点や三浦大輔の35イニング連続無失点、寺原隼人の2試合連続完封など主力選手の活躍が目立った。1月15日、産業能率大学と業務提携することになり、調印する。ファームの湘南シーレックスをスポーツビジネスの授業に取り入れていくことに決まった。
2008年、開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗する。その後も低迷を続け、2年ぶりの最下位に終わり、貯金もなかった。この年に飛躍した内川に加えて村田、吉村の強力クリーンアップをもってしても、投手陣の崩壊により最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗も記録した。内川聖一の打率(.378)がチーム勝率(.338)を上回るという2リーグ分裂後では初となる珍記録も記録された。ヘッド兼打撃コーチの弘田澄男など4コーチを解任した。正捕手の相川亮二がFA権を行使してヤクルトに移籍した。CS放送の本拠地での中継権利をJsportsからTBS運営のTBSニュースバードに移行。
2009年はWBCでの村田の離脱や、開幕6連敗など成績面で不振が相次ぎ、5月18日に大矢監督の無期限休養を発表(事実上の解任)。二軍監督の田代富雄が翌日から監督代行を務めたが、落ち切ったチームを浮上させることができず、2年連続の最下位となった。前年同様1度も貯金はなく、田代は一軍の監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任した。 11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った(船上での監督就任会見はプロ野球史上初)。ヘッドコーチには島田誠が就任。オフには、ロッテのエース清水直行を斉藤俊雄と那須野巧とのトレードで獲得、同じくFA宣言をしたロッテの橋本将を獲得、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジを獲得するなど大規模な補強を行っている。
2010年、前年まで4年間巨人の投手チーフコーチを務めていた尾花高夫を監督に迎えた。3月31日、対巨人戦の勝利で順位を3位タイとする。同時に広島が単独最下位となったが、横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)となり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日-2007年3月24日、262試合)を更新してこの日ストップした。しかし、交流戦以降は低迷し、最下位に転落。一度も浮上することもなく9月7日の対巨人戦の敗戦で5年連続のBクラスが確定し、9月25日の対中日戦の敗戦で3年連続の最下位が確定。9月28日の対ヤクルト戦で敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、10月6日の対阪神戦の敗戦で130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。このオフにはFAで日本ハムの森本稀哲を獲得するが、内川聖一がFAでソフトバンクに移籍している。8月、2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。
9月30日、TBSHDが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループとの間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[16]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し“大筋で合意しており10月中に正式決定”とコメントしていた[17]が、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSHDは住生活グループとの交渉を打ち切り[18]、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った[19]。交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている[20]ものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした[21]。又同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた[22]。
2011年は当初3月25日の公式戦開幕予定が、11日に発生した東日本大震災の影響により4月12日に延期され、4年ぶりに本拠地での開幕となり、中日と対戦し3連戦を勝ち越し、2000年以来11年ぶりに開幕カードを勝ち越した。5月以降低迷状態に陥り、10月9日に4年連続の最下位が決定している。チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年~1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。
10月19日、TBSHDがディー・エヌ・エー(DeNA)へ譲渡することで大筋において合意[23]。10月22日、最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された[24]。11月4日、TBSHDが所有する株式の一部(TBSHDの保有する640,000 株(議決権割合 49.23%)、BS-TBSの保有する230,000 株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で、日本プロフェッショナル野球機構の実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として、DeNAへ譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)[25]。また、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」として申請される。11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が発表された。
12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された[26]。翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航し、横浜在籍経験もある工藤公康に正式に要請したものの合意にはいたらず、12月9日に巨人OBで日本テレビ野球解説者の中畑清が監督に就任した。
2011年オフに村田修一がFAで巨人に移籍し、更にターメル・スレッジやブレット・ハーパーのを解雇、一方で、巨人から自由契約になったアレックス・ラミレスを獲得、同じく巨人からFAで鶴岡一成、中日からFAで小池正晃がそれぞれ古巣の横浜へ移籍し、村田の人的補償で巨人から藤井秀悟を獲得した。
「横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の年度別成績一覧」を参照
(2011年終了時)
1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)[27]、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。
第二次世界大戦中に存在した大洋軍とは名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は親会社・大洋漁業(当時)が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカのメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更されるが、略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」が使用される[28]。
1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていたが、2012年シーズン以降は「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更される[28]。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。
| 横浜DeNAベイスターズ マスコット #1993 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 選手情報 | |
| ポジション | マスコット |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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「チャンステーマ」も参照
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・応援メガホンやバットの使用・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。独特な旋律は応援歌の枠を超えて他球団ファンにも人気がある。移籍して入団する選手が口を揃えて「横浜のファンは大人しい(紳士的)」と言うなど、他球団の野次合戦とは一線を画し応援についての申し合わせを遵守している。
以下は2010年時点のもの
横浜球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBS(東京放送)に譲渡された。この際、TBSがもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により野球協約に規定されている新規加盟料30億円の支払いは不要とされた。
それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ→TBSのケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところは、ユニホームの袖についたTBSのロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBSの株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社東京放送ホールディングス(TBSHD)に移行した事から楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSHDに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。
「放映権 (日本プロ野球)」も参照
東京放送ホールディングスが筆頭株主(事実上のオーナーと目される)であったときにも、傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオ&コミュニケーションズでは、対巨人戦以外の中継はめったに行われなかった。巨人戦以外は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独で放送[38]し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも放映権は保有しているが、同局では放送せず、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本)制作中継のために使っていた。ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がないときに放送された[39]。親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、テレビもしくはラジオで放映予定である。
2004年から毎年夏季限定ユニホームを採用している。いずれも8月主催試合(2010年は7月中旬から8月いっぱい、2011年は7月初旬から8月いっぱいの予定)でのホーム用のみ。
交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更される予定である[41]。
2010年8月にセントラル・リーグが開催した「オールドユニホームシリーズ」では前身球団である横浜大洋時代のホーム用ユニホームを使った[42]。この他、2006年のファン感謝デーには大洋・横浜大洋時代の復刻ユニホームを着用してアトラクションをこなしている。
※太字は優勝達成監督
球団の永久欠番は次の通り。
横浜ベイスターズでは、通算2000本安打、通算200勝、250セーブを記録した選手に対し、球団より貢献者として顕彰される。各人物は、横浜スタジアムの外野フェンス右翼部分にレリーフを飾り顕彰している。現在の対象者は以下の通り。
1952年9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。
横浜のリーグ優勝は2回。大洋時代の1960年に初優勝を果たしたものの、2度目の優勝はベイスターズと名前を変えてからの1998年。この間、実に38年間ものブランクを要したが、初のリーグ優勝を果たした後の1962年と1964年は終盤まで阪神タイガースと熾烈な優勝争いを繰り広げている。
特に1964年は、残り2試合で1勝すれば4年ぶりの優勝を果たすところまで粘り、阪神甲子園球場での直接対決を迎えた。ところが、試合当日は小雨だったものの、阪神側の意向で試合は中止になった(試合開始前の開催か中止かの判断は主催チームが行う)。その後、阪神は破竹の9連勝を遂げ、8試合目の対中日ドラゴンズ戦で逆転優勝を果たした。当時、大洋の正捕手として活躍していた「明大五人衆」の一人、土井淳は後に「この2年間のどちらかに優勝していたら、38年も(優勝から)遠ざかることは無かったと思う」と語っている。
1969年のドラフト会議で、早稲田大学の荒川尭に対する大洋の強行指名が発端となって起きた、ドラフト史上最大とされる事件(荒川事件)。
荒川は当初、大洋への入団を拒否、その後の経過では熱狂的な大洋ファンと目される者による荒川への傷害事件まで発生するが、後に荒川は形式的に大洋へ入団し、ヤクルトアトムズに移籍してプロ野球選手として活動するも、傷害事件の後遺症とされる視力障害により早々に選手生命を絶たれた。
この事件が原因となって、「横浜ベイスターズ」となってからも、2008年に松本啓二朗・細山田武史を指名するまでは早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。
1974年 - 1977年のシーズンに使われたユニホームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」といわれた。
このユニホームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡出身の山下がドラフト1位で入団したため、ヘッドコーチの秋山登が「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニホームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニホームが完成した。具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニホームを参考にしている。
1982年、長崎慶一は首位打者争いでトップを走っていたが、中日ドラゴンズの田尾安志は長崎に6厘差で迫っていた。中日にとってはシーズン最終戦となる試合で、大洋は田尾に対して5打席連続敬遠を行った。この大洋の行為に対し、田尾は5打席目で敬遠球に対し抗議の意味を込めた空振りを行ったほどだった。一方の長崎はこの試合を含め欠場し、最終的に長崎は首位打者となった。
敬遠行為そのものは、この他にも特定の打者への全打席敬遠の例が多数存在し、ルール上認められる行為でもある。ところが、この試合は長崎と田尾の首位打者争いよりもはるかに重要な意味がある試合だったため、この5打席連続敬遠が大きな災いを招く事となる。
試合前の時点で中日は全日程を終えた読売ジャイアンツとゲーム差0で並んでいたため、中日が勝てば中日の優勝、大洋が勝てば巨人の優勝と、リーグ優勝が掛かった大一番だった。しかし大洋は田尾に5打席連続敬遠を行い、走者となった田尾をあっさり生還させてしまうなど大差で敗れ、中日の優勝が決まった。
大洋の勝利よりも個人記録を優先した行為に対し、納得できない多数のファンが試合後に「イニングの先頭打者である田尾へ敬遠した大洋の行為は敗退行為[45]ではないか」と連盟に抗議が集中する事態となった。
「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」などと反論されて抗議は退けられたが、一段落した後も、世論は大洋の行為に「アンチ巨人だが、さすがにあれは巨人ファンに同情した」「中日ファンとして素直に喜べない優勝だ」などといった疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書「プロ野球データブック」で大洋の行為を糾弾した。
当時監督だった関根潤三は、その後フジテレビの野球解説者として解説者となった田尾と再会し、「当時の大洋では個人成績だけがニュースになる状態だった」と敬遠へ至った経緯を説明し、「時々、あの敬遠の場面を夢に見て目を覚ますことがある」とも打ち明けた。これ以降、関根と田尾との関係が修復された。
1995年のオールスターゲームは横浜スタジアムで開催されることとなった。これに当時の球団社長らは、ゲームを盛り上げるためにファンに対してファン投票への参加を呼びかけた。
ところが、これが大量の「組織票」を発生させる結果となってしまい、本拠地開催となった横浜からは佐々木主浩と駒田徳広、ロバート・ローズ、佐伯貴弘、グレン・ブラッグス、畠山準の6人が選ばれたため、批判の的となった(他の3名は古田敦也と江藤智、野村謙二郎)。特に佐伯と畠山に至ってはノミネートこそされていたものの、選出時点ではスタメンを波留敏夫や鈴木尚典に譲ることが多くレギュラーとは言えなかったため、当人たちも困惑気味だった。
試合では、普段は抑えの佐々木が先発し、誰にも踏み荒らされていないマウンドで投球する珍しい光景が見られた。
なお、これが影響して、1951年にオールスターが開催されて以来初めて、ファン投票で巨人の選手が1人も選出されなかった(2003年にも同様のことが起こっている)。
1997年にプロ野球選手による脱税(プロ野球脱税事件)が発覚し、横浜からは波留敏夫と万永貴司、川崎義文、米正秀が関わっている事が判明した。特にリードオフマンで特攻隊長的役割を担っていた波留の離脱は優勝争いを行う上でも大きな痛手となるため、外野手の補強が急務となった。
そこで、先発転向後2年間結果が出なかった盛田幸希とのトレードで、大阪近鉄バファローズから中根仁を獲得した。開幕当初こそ井上純やホセ・マラベなどがスタメンに名を連ねていたが、中根は「左殺し」として左投手先発時のスタメンや、左投手への代打の切り札として1998年の優勝に貢献した。波留も6週間の出場停止が解けると、二軍での調整も一切禁じられていた球団の方針だったにも関わらず、権藤博によってぶっつけ本番でスタメンに復帰する。
復帰当初こそ無調整の状態から結果を残せなかったが徐々に調子を取り戻し、7月の月間MVPに輝くなど奮起した。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは波留選手です」というインタビュアーの声と同時に「ヤッター」と自らを鼓舞し、感涙と戒めの男泣きを憚り無くお立ち台で見せた。
2001年のみセ・リーグの順位決定方法が通常と異なっていた。勝率の順位と勝利数の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝ち数1位のチームが異なる場合はその両チームによるプレーオフでリーグ優勝チームを決めることにした。
その2001年、横浜は69勝67敗4分けで、広島は68勝65敗7分けでシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511。前年までの順位決定方式なら広島が上位になるところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で決めていたため、勝ち数で上回っている横浜が3位に入り、5年連続でAクラス入りした。
この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすいという結果となり、実態が分かりづらいなどの理由からわずか1年で「勝率順」に戻した[46]。
2005年は順位決定方法が勝率順に戻っていたため、69勝(70敗7分け、勝率.496)の横浜が3位、71勝(73敗2分け、勝率.493)のヤクルトが4位となった。
2007年9月30日の横浜対東京ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)は、NPB公式戦(一軍)では実に9年ぶりとなるダブルヘッダーとして開催されることになった。
このうち1試合分は、同カード[47]が悪天候により中止となった場合を想定して、シーズン前の日程編成の段階において試合日時と開催球場を未定としていた開催分で、実際に横浜スタジアムで雨天中止となった同カード1試合と組み合わせる形でダブルヘッダーとして編成された。
だが、当日はあいにくの雨天でダブルヘッダーは2試合とも中止となり、10月8日・10月9日の2連戦として組み直された。この2連戦も、仮に8日が悪天候の場合は9日をダブルヘッダーとして開催する予定だったが、両日とも予定通り開催された。蛇足だが、8日はマーク・クルーンの横浜在籍最後の登板試合で、9日は古田敦也の現役最後の試合だった。
NPB公式戦でダブルヘッダーが最後に開催されたのは1998年のこと。パ・リーグは10月9日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)、セ・リーグはその翌日の横浜対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)である。その後ダブルヘッダーはセ・パどちらでも開催されておらず、21世紀になってからは一度も無い。
2008年5月28日・5月29日の横浜主催セ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦は、九州地方2県で開催された。
試合が行われたのは、初日の28日が大分県大分市の新大分球場、翌29日が福岡県北九州市の北九州市民球場だった。後者の福岡県はソフトバンクの保護地域であり、北九州では1989年の球団移転以来、年間数試合主催公式戦を開催しているが、セ・パ交流戦が相手球団の保護地域で開催されたのはこれが初だった[48]。
北九州でのダグアウトの割り振りは、通常のソフトバンク主催試合同様に横浜が三塁側、ソフトバンクが一塁側を使った。また、横浜は同年シーズンまで交流戦で「交流戦専用ユニホーム」を着ていたが、この2連戦では通常のユニホームを着た。一方、ソフトバンクが北九州でビジター用ユニホームを着たのはこの試合が初だった[49]。
横浜市中心部では同年5月26日 - 5月30日までの間、TICAD(アフリカ開発会議)(5月28日 - 5月30日)開催のためテロ対策など警備の強化が行われる予定だったことから、日程編成の段階でこれを配慮して地方開催に振り替えたものと見られる(両試合とも横浜球団と地元JNN系列局=28日は大分放送、29日はRKB毎日放送が主催)。観客の大半はホークスファンだったが、首位打者争いをしていた内川聖一にとっては地元大分への凱旋試合となった。
但し、北九州市はベイスターズの前身・大洋ホエールズの発祥地である山口県下関市に隣接しており、関門都市圏は古くからベイスターズファンが多い土地柄という背景もある(下関球場も参照)。また、近年横浜は北九州市民球場で主催の春季オープン戦を年間1試合前後開催している。
2012年5月30日・5月31日の横浜主催のセ・パ交流戦・対福岡ソフトバンクホークス2連戦も、九州地方2県で開催予定。試合が行われるのは、30日が長崎県長崎市の長崎ビッグNスタジアム、翌31日が福岡県北九州市の北九州市民球場[50]。
2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年開場した新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を受けたことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、今後NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。なお、これまでの一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補として横浜の名を挙げていたが[51]、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からも横浜球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2010年9月現在)。
しかし前述の住生活グループへの球団売却問題が明らかになった際、一部報道で新潟を準本拠地、もしくは完全移転する構想が報じられた。住生活グループ側は広域アクセスの問題などから新潟への移転には否定的な見解を示しながらも、将来的な移転の可能性は否定せず、横浜での本拠地継続を求めるTBS側とその他も含めた条件面で折り合いが付かなくなり、結局10月27日までに売却交渉は決裂した。なお横浜側は2011年シーズン、新潟ではこれまでと同様に主催公式戦を開催する意向を表明しており、同年は対阪神戦1試合が開催され、2012年も対巨人戦1試合の開催が予定されている[52]。
横浜は2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した沖縄セルラースタジアム那覇で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。横浜は大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来、実に35年ぶりのプロ野球公式戦となった。
また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦[53]としては史上初のナイター(19時開始[54])となった。
1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。
1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。他球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた。
1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いが、実際には球団と同行の間には直接的な関係はない。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。蛇足ではあるが、ベイスターズのオフィシャルグッズショップ「ザ・ベイスターズ」のレジでは一時期、横浜銀行が得意先に配布していたノベルティのロゴ入り金銭皿を使っていたことがある。
巨人に連敗し続けたあるシーズン、横浜が久々に巨人に勝った夜には、当時テレビ朝日系『ニュースステーション』で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で同カードの結果を報じるVTRに「今後の融資はお断りいたします」というオチを付けた程だった。
1990年以降は対巨人戦で好成績をマークしたり、とりわけ1998年には38年ぶりのリーグ優勝を飾るなど、過去にはその汚名を返上したシーズンもあったが、2000年代で巨人に勝ち越ししたシーズンは2005年の1回のみ。これは2000年のみ勝ち越しのヤクルトと並ぶ。
2006年以降[55]は巨人を相手に5年連続で負け越しているほか、2008年終盤には巨人と優勝争いを繰り広げた阪神を相手に6連勝するも、対する巨人には7連敗を喫し、これが結果として間接的な「優勝へのアシスト」になってしまった(ただし、阪神も巨人に終盤7連敗している)ことなどから、一部マスコミからはヤクルトとともに「関東軍」とも呼ばれている。[56]
高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足打者3名を指す。近藤貞雄監督時代の1985年に彼ら3人を打順の1 - 3番に並べ、「スーパーカートリオ」と命名された。この年の3人の盗塁数は、高木42盗塁、加藤48盗塁、屋鋪58盗塁、合計148盗塁だった(高木は前年盗塁王、屋鋪は翌年から3年連続盗塁王)。後に加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。
2006年7月16日の対広島戦のイベントとして復活し、打者・田代富雄、広島の川口和久と達川光男のバッテリーと1人1回限りの盗塁対決を行った。結果は高木が二盗死、加藤が牽制死、屋鋪が二盗成功となった。
チーム名がホエールズからベイスターズに変わる1993年頃、昭和44年(1969年)(昭和45年の早生まれの者も含まれるので、正確には昭和44年度)生まれの選手が多数一軍で活躍した事から呼ばれた言葉。具体的には、斎藤隆・野村弘樹・島田直也・五十嵐英樹・有働克也・盛田幸妃・進藤達哉など。彼らは当時24 - 5歳の若手であり、数年後の日本一達成時にも、移籍した有働と盛田以外は全員が主力として活躍した。斎藤以外は全員現役を退いたが、有働は打撃投手、五十嵐はスコアラー、盛田は球団職員としてそれぞれ横浜に在籍している(他にも野村がコーチ、進藤がコーチ→スカウトとして在籍していたが既に退団している)。
翌年の昭和45年生まれも谷繁元信、石井琢朗、波留敏夫、佐伯貴弘、井上純と当たり年だった。98年の日本一を達成できたのはこの昭和44・45年組の「黄金世代」といえる選手たちの働きが大きかったと言える。
詳細は「マシンガン打線」を参照
ベイスターズ打線の代名詞。長打力はないものの、連打でたたみかける途切れのない打線を形容して命名され、1998年の優勝時にベイスターズ打線の愛称として定着した。基本的なオーダーは、石井琢朗 - 波留敏夫 - 鈴木尚典 - ロバート・ローズ - 駒田徳広 - 佐伯貴弘(中根仁) - 進藤達哉 - 谷繁元信 - 投手の順である。
「横浜スタジアム#横浜ドーム構想」を参照
詳細は「クアトロK」を参照
横浜の4人の救援陣(木塚敦志、加藤武治、川村丈夫、マーク・クルーン)を指す。4人の頭文字の「K」とイタリア語で4を意味する「クア(ワ)トロ」から。
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| かつて存在した球団 | ||
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