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はしもと とおる
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| 生年月日 | 1969年6月29日(42歳) |
| 出生地 | 東京都渋谷区幡ヶ谷 |
| 出身校 | 早稲田大学 |
| 所属政党 | 無所属→ 大阪維新の会 (2010 - ) |
| 公式サイト | 橋下徹オフィシャルウェブサイト |
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| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 2008年2月6日 - 2011年10月31日 |
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| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 2011年12月19日 - |
橋下 徹(はしもと[注釈 1] とおる、1969年6月29日 - )は、日本の元タレント(タイタン所属)、政治家。弁護士(大阪弁護士会所属、橋下綜合法律事務所代表)。大阪維新の会代表。大阪市長(第19代)。前大阪府知事(民選第17代)。
目次 |
東京都渋谷区幡ヶ谷の六号坂通り商店街近くのアパートで幼少期を過ごした[1]。物心ついた頃には両親が離婚しており、母子家庭の長男として、四つ下の妹を含めた三人家族で育った[2]。
暴力団組員の父親が橋下が小学2年生の時に死亡[3]、母親が苦労して家計を支えた。小学5年の頃大阪府吹田市に引っ越し、1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。いずれも、公営住宅から地元の公立学校に通った[4]。
実父については後述。
大阪市立中島中学校、大阪府立北野高等学校卒業。高校時代の同級生には自民党前衆議院議員の川条志嘉、NHKアナウンサーの藤井彩子がいる[注釈 2]。
中学・高校時代はラグビー部に所属[注釈 3]。3年時には、第67回全国高等学校ラグビーフットボール大会大阪予選を勝ち抜き全国大会に出場。3回戦で伏見工と激闘を演じたものの終了間際にトライを許し、トータルスコア12-16で敗れベスト16で敗退した。[注釈 4]。後に高校日本代表候補に選ばれ東西対抗にも出場する。
高校卒業後、一年間の浪人生活を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。東京の六畳一間、風呂無し、トイレ共同のアパートで、後に妻となる高校の同級生の女性と同棲を始める(「女性セブン」2011年12月15号に記述)。学生でありながら革ジャンの卸売[注釈 5]などアパレル事業をしていた時に、不渡り手形をつかまされた経験で法律を勉強したことがきっかけとなり弁護士を志す[5]。
1994年春に大学を卒業し、同年、司法試験に合格[6]。2年間の司法修習で法曹資格を得、1997年に大阪弁護士会に弁護士登録。大阪市内にある樺島法律事務所に10ヵ月在籍。
弁護士2年目の1998年、大阪市内に「橋下綜合法律事務所」を設立し、示談交渉による解決を看板にする。飛び込み営業なども行い顧客を集め[7][8]、年間400~500もの案件を手がける。弁護士としての主な担当業務は企業コンプライアンス、M&A、エンターテイメント法、スポーツビジネスなど。2008年2月6日の大阪府知事に就任後は、事務所を法人化し別の弁護士が運営する。
芸能事務所タイタンと業務提携し、自身のタレントとしてのマネージメントを委託していた。また、同社の顧問弁護士も務めていた。
2007年12月12日、大阪府知事選挙に出馬することを表明。2008年1月府知事選に出馬した橋下は、八尾市の街頭で、「私は(八尾市の)○○地区に住んでいました。」と演説した[2]。
2008年1月27日投開票の大阪府知事選挙で183万2857票を獲得し当選。同年2月6日に大阪府知事に就任。
詳細は「#大阪府知事選出馬」を参照
2009年に、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersの1人に選出された。
2011年11月、自らが掲げる大阪都構想などの政策実現を目的として、任期を3ヶ月余り残して大阪府知事を辞職、任期満了に伴う大阪市長選挙に立候補。
「2011年大阪市長選挙」も参照
40年ぶりとなる府知事選とのダブル選挙、現職の平松邦夫(12月19日任期満了)との一騎打ち等が注目されたが、結果は750,813票と平松に20万票以上の差をつけて初当選。
同年12月19日、第19代(公選制では9代目)大阪市長に就任した。大阪市外在住者(豊中市在住)が大阪市長になるのは史上初であり[注釈 6]、知事経験者が政令市長に就任するのは史上初である。
民主旋風が吹いた2009年の総選挙などでは民主党を支持する立場を取っていたが、現在は距離を置き批判などをしている。
小学校2年生の頃、父親が自殺。その後、母子は、橋下が小学校5年生の時に大阪の吹田市に転居。1年後に東淀川区にある府営住宅に入った。ノンフィクション作家の上原善広によると「府営住宅に申し込んだら、偶然、その地区(同和行政が施行される地区)に当たったようです。母親は息子に、父親がいわゆる被差別部落出身者だということは教えていなかったと思う。彼は自分のルーツを知らぬまま東京で育ち、その後、たまたま別の部落のある街に引っ越して生活するという、非常にねじれた境遇で育ったのです。」という[18]。また、橋下の母親は府営住宅の家賃に関して同和減免措置を受けるよう誘われたが断り続けたという[19] 。
中学一年生の時点ですでに身長は170cm程度あり、落ち着いていて正論を言うので、あだ名が『おっさん』だった。中学二年生の夏、自転車の窃盗で補導された[20]。
ノンフィクション作家の上原善広によると「彼が進んだ中学では、同和教育が行われていましたが、彼はこれに反発しています。卒業文集で、『納得できないのもたくさんある』とあからさまに批判している。中でも彼が最も嫌悪したのは“地元集中”というもの。これは学力の高い子も低い子もまとめて地元の高校に進学させるというもので、学力格差を防ぐための措置でした。橋下はこれに猛烈に反発し、府内屈指の進学校北野高校に進学したのです。しかしそこで彼は浮いた存在になる。中学で同和地区の理不尽さを学び、高校では坊ちゃんが集まるエスタブリッシュメントの世界を見たのです。この過程で彼の中に猛烈な上昇志向が生まれたのだと思います。」という[18]。
高校の頃のあだ名は『ハシゲ』。高校の同級生や橋下の高校生のころを最もよく知る先生によると、「(橋下は)体育の時間にバレーボールとかしてても失敗した子がいたら徹底的に罵倒した。掃除の時間になるといつの間にかいなくなる。校内大掃除とか、みんなでやる作業でも徹底して拒否した。」という[21]。
橋下本人はtwitter(2011年10月29日)で「僕は学生時代真面目な学生でなかったことは認める。」とコメントしている。
早稲田大学政経学部をへて弁護士になった橋下は大阪の樺島法律事務所に入る。
樺島正法弁護士によれば「平成9年、橋下は勤務弁護士として私の事務所に入ってきた。第一印象は元気のいい青年。人当たりのよさそうな雰囲気だった。私の前では常に下手に出て、“先生、先生”と言ってくる。まさか独裁者になるなんて思いませんでした。面倒をみるうち、橋下が異常なほど金に拘る人間であることがわかってきた。飲みに連れて行くと、話題はカネ、カネ、カネ。どこの管財人が何億儲けた、だの、あの弁護士は幾ら稼いだだの、そんなことばかり。橋下は強きに弱く、弱きに強い。金を持っている依頼人への媚びへつらいは酷いものだった。電話でも猫撫で声を出してね。弁護士として品性がないと思いましたね。それで“こいつ早く辞めさせた方がいいな”と感じはじめたのです。独立後の橋下は一件あたり15万円ぐらいの安い案件を保険会社などから取ってきて稼いでいると聞いた。集めた案件を事務所のイソ弁(勤務弁護士)に回してこき使っていた。3日とか1週間で辞めたイソ弁もいるという話だ。ブラック企業ならぬ“ブラック事務所”だね。」という[22]。
樺島法律事務所に入った後、橋下は「同和地区に住んでいたけど私は同和じゃなかった[23]。だから補助金ももらえなかったし、深く恨んでいる。私は同和問題はやりません」と言い、部落解放同盟の朝田善之助派が起こした京都市営住宅の家賃値上げ反対訴訟に参加することを拒否した[24] 。
法律事務所を設立した2年目の1999年から2004年まで、消費者金融大手「アイフル」の子会社である商工ローン企業「シティズ」の顧問弁護士であった[25]。シティズは「利息制限法による引き直し計算とそれを前提にした特定調停・個人民事再生に応じない」「みなし弁済の主張に固執し、多重債務救済手続の支障になる」「連帯保証人を要求し、連帯保証人から債権回収を図る」など、多重債務問題に取り組む弁護士、司法書士、被害者の会などからは対応に極めて問題のある企業として知られていた[26]。橋下はこの時代を含め、「(担当した裁判は)8年間負け知らずだった」と語っている[27]。
大阪で弁護士活動をしている中、高校時代の先輩からMBSラジオのラジオ番組に代理出演を依頼され出演。偶然その時の放送を聞いていた朝日放送のプロデューサーから出演依頼を受け、朝日放送『ワイドABCDE~す』にジャーナリストの大谷昭宏と共に出演するようになる。大谷とはその後『スーパーモーニング』や『ムーブ!』でも共演している。同番組の火曜日に出演していたデーブ・スペクターが橋下の存在を知り、橋下が出演した放送のテープを東京に送ったことから在京キー局各社に名前が知られるようになった。
2003年4月から、久保田紀昭の後任として日本テレビ系全国ネットの『行列のできる法律相談所』にレギュラー出演するようになる。同年7月には関西ローカルの『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)でもレギュラーとなり、これらの番組におけるユニークな言動で全国的に知名度が上がっていった。大阪に事務所があり、番組出演の前後に公判を入れることがあるため、出演するのは関西ローカルの番組が多かった。
しばしばタレント・文化人批判や下ネタ発言をする一方、ワイドショーなどでは事故・事件・時事問題について自分の意見を強く述べていた。また、司法問題や法曹界全般、弁護士・裁判官の資質に至るまで幅広く批判していた。このため自身の発言で物議を醸すことも多かった。
詳細は「#話題になった言動」を参照
「2008年大阪府知事選挙」も参照
2007年12月に2008年大阪府知事選挙への立候補が報道されたが[28][29]、当初は「2万%あり得ない」と否定した。後の出馬会見で、実際には自民党の古賀誠・選挙対策委員長、堺屋太一らと東京で会い、立候補を了承していたこと、報道された場合は会談自体なかったことにすることで合意していたことを明らかにした。2007年12月11日、再び大阪府知事選挙への立候補の意思があると報じられ、マスメディアの報道が出馬と否定に割れたが、本人は12月11日午後に再度否定した。翌12日、大阪府庁で行われた記者会見において正式に出馬表明[30]。普段のラフなスタイルと打って変わって髪は黒く、サングラス(色付き眼鏡)も掛けず、スーツにネクタイ姿で現れた。
二転三転した理由については、仕事の調整の手続き上であるとしたが、番組で共演する評論家で友人の宮崎哲弥は、「橋下がウソを付いた理由」もウソであるとし、「自公推薦だけでなく、財界の支援取り付けの確認ができるまで待っていたため」であると述べている[31]。
また、以前から自民党大阪府議会議員から打診があり、12月3日に立候補の正式要請を受けたこと、島田紳助ややしきたかじん、辛坊治郎からの後押しが出馬を決意するきっかけとなったとしたが、たかじんはその後「(知事選出馬への)GOサインを出したかどうかは、微妙だと思う」と語った [32]が、選挙戦終了後、「たかじんのそこまで言って委員会」収録後に楽屋で出馬を説得した事実を認めている。
なお、知事選への出馬により、出演しているテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板することとなり、収録済みの『ムハハnoたかじん』は別番組に差し替えられることとなった[33]。
2008年1月7日、自民党、公明党共に党本部としての推薦・支持を見送ることを表明し、自民党は「府連推薦」、公明党は「府本部支持」とし、共に府連レベルでの支援を決定した。公明党大阪府議団は、「核武装論など、今までの発言に支持者から反発があった」と過去の言動から「推薦」を見送り「支持」に留め、公明党本部もこれを尊重することを表明した。公明党は同年1月16日新春年賀会に橋下を招き、支持母体である創価学会を初めとする支持者らに橋下への支援を訴えた。また、ネット上では絶大な人気を誇り、ネット社会の寵児であるともいわれる。そのため、安易なネット規制は通信の秘密を侵害するものとして否定的である。親が暴力団関係者であるといった一連のマスコミによる批判が起こった際も、ネットユーザーから橋下氏を擁護するためのマスコミ批判が沸き起こった。
維新政党・新風が「同和対策予算はゼロにします」という橋下の姿勢を評価し、勝手連として支援することを表明した[34]他、2008年1月7日には南部靖之や堺屋太一、井手正敬らが橋下の政策に賛意を示し、勝手連を立ち上げた。
記者会見では、認証保育施設の増設、公立中学での米食給食の実施、大阪市中心部を石畳とガス灯で整備する、歩行者天国を設置するなどを主張。しかし、それらは大阪市など大阪府以外の自治体が実施権限を持つ政策であったため、自民党府議団と会談した際に、公約となる政策を再度考えてくるよう資料を渡され出直しを命じられた。
府庁改革については、告示前に「府庁解体」を行うとして「ちゃぶ台をひっくり返す」「汗をかかない方は去って下さってかまいません」と発言するなど府庁職員に対して敵対姿勢を見せていたが、その後一転して府庁職員の前で話す際には「皆さん(府庁職員)の盾、サンドバッグになります。一緒にスクラムを組んでください。 」と対応を180度変えた[35]。
「公立小学校に緑があふれる大阪に」 「食育教育の充実で、子どもが伸びやかに育つ大阪に」 「明るく豊かな学校生活がおくれる大阪に」 「多様な府立高校が選べる大阪に」 「ボランティア団体・NPOに活気がある大阪に」 「専門的な公立病院のある大阪に」
「メリハリの利いた補助制度がある大阪に」 「商業地域・市街地に人が集まる仕組みづくりのある大阪に」
「府庁全体が中小企業振興のサポーターとして働く大阪に」 「大企業の要望を取り入れられる大阪に」 「大阪府立大学という『シンクタンク』がある大阪に」
「むだな出費を抑えた大阪に」 「道州制をめざした投資会社大阪府庁に」 「住民への直接サービスは市町村にどんどん権限を委譲」 「府庁は、各市町村にまたがる事業や各市町村の調整、また大阪府の方向性 を決定する司令塔の役割に徹する組織を再編」 「現在の大阪府の事業は、効果が見えにくいプロジェクトや単なるお金貸しの事業ばかり。今後は、効果がはっきり見える事業にしか投資しない」 「府議会からのチェック機能が働く大阪に」 「情報公開の徹底した大阪に」 「大阪の笑顔のために、国とたたかう大阪に」 「府職員の士気が満ちあふれる大阪に」
推薦・支持している自民党と公明党は表立った支援をせず、選挙対策本部は所属事務所タイタンと高校時代のラグビー部OBを中心とし、政党色を薄めた選挙戦を展開。自民、公明の大阪選出国会議員、地方議員がいっさい応援演説をせず、著名人の応援は選挙戦終盤に来た参議院議員・丸山和也と宮崎県知事・東国原英夫程度であった。7人の子持ちであることを前面に押し出し、「子供が笑う」をキャッチフレーズに「4つのトライ」と17点の重点事業をマニフェストとして掲げた。
選挙戦中盤の1月20日には、橋下のテレビなどでの言動を問題視した300万枚もの選挙法定ビラ(対立候補の熊谷貞俊事務所と同所在地にある団体が作成)[要出典]が新聞折込広告として府内に配布された[注釈 8]。
最終的には対立候補に80万票以上の大差を付けて当選。当選当時の都道府県知事の中で最も若い知事となった。いわゆる「タレント知事」の誕生は大阪府では横山ノック(2期を務め、途中で辞職)以来13年ぶり。弁護士出身の現職知事は愛知県知事神田真秋に次いで2人目である。公選の大阪府知事としては初の東京都出身である。38歳の公選知事は歴代3番目の若さである[38]。
当選直後から各種メディアに出演。1月29日には内閣総理大臣・福田康夫を表敬訪問。また、知事就任前に大阪府庁に登庁し事実上大阪府知事としての職務を始める。自民党大阪府議団の一室を借り、事実上の仮知事室として府職員と就任後の2008年当初予算の作成、政策協議を行う。
2008年2月6日に大阪府知事として大阪府庁に初登庁。就任の記者会見で財政非常事態宣言を出し、2008年度当初予算では前年度比で1000億円削減することを明言。現行4176万円の知事退職金を半減させるとした。6月5日には府の財政再建に道筋をつける為の「財政再建プログラム案」を提示。「収入の範囲内で予算を組む」という選挙公約に則り、事務事業・出資法人・公の施設について多岐にわたる見直しを行なった。その結果、3年間で計2441億円(一般施策経費919億円、建設事業費239億円、人件費1283億円)の歳出を削減したほか、613億円の歳入を確保した。
2008年から2010年にかけての「財政再建プログラム案」の主な取り組みは以下のとおりである[39]。
2008年2月6日の知事就任記者会見で、「情報公開の徹底」を選挙公約に掲げたことを踏まえた「情報公開室」の設置を表明。「どんな情報を出すのか」という記者の問いに、「基本的には、あらゆる情報」と答えた[41]。4月23日の記者会見では、「知事職という独裁者的な職を民主的にコントロールしてもらうために、情報公開が必要不可欠」との認識を示し、「透明度日本一の府政を目指す」と語った[42]。
2011年9月1日、全国市民オンブズマン連絡会議が発表した「2010年度全国情報公開度ランキング」において大阪府は満点となる70点を獲得[43]、2007年のランキングでは都道府県で28位だった順位も1位タイへと上昇した[44]。
知事任期中に実施した「オープン府庁(究極の情報公開)」と呼ばれる取り組みは以下のとおりである。
選挙戦で公約した「原則として府債を発行しない方針」を当選後の2008年2月に撤回。2008年度の暫定予算案において、「発行しないと府民生活に影響が出る」との説明のもと、建設事業費として160億円の府債を発行する方針を発表した。さらに、「ギリギリまで発行を抑えたが、後半にどんとついてくる」と発言しており、府債発行を増額させる可能性を示唆している[49]。
学力別クラス編成導入について、選挙中に「塾でもやっていることが、なぜ公立の学校でもできないのか」として熱心に導入を呼びかけていたが、文部科学省の銭谷真美事務次官などの反発もあり、2008年2月13日にこれを撤回。「基本となるクラスまで学力によって分けるのは反対」と正反対の見解を述べた。また、約600億円(生徒児童一人あたり約37万円)に上る私立学校助成金の削減を検討していたが、これも撤回。次年度以降も当面続けることを明らかにした[50]。
4月11日、総額1100億円の予算削減を行う財政再建プロジェクトチーム案を発表。この案を元に議論を進めるとし、「賽は投げられた」述べた。この案は、職員人件費の大幅削減、警察官の定数削減、私学助成金のカットや助成団体への補助金見直しを含む大胆な案で、賛否入り乱れた大きな反響があった。4月17日には、市町村への補助金カット反対を訴える市町村長との交流会で、感極まって涙を見せる一幕を見せた。
6月5日には、試案を若干見直した「大阪維新プログラム」と称した案を発表。人件費や私学助成金など固定費を375億円削減し、全体で1100億円の歳出削減を図る骨子は変わらなかった。6月20日には、職員労働組合との徹夜の団体交渉に挑んだが、組合員から時節罵声が飛ぶなど荒れた雰囲気の中、両者の主張は平行線をたどり結局決裂したまま予算提出となった。
7月1日からの臨時大阪府議会では、府側が提出した2008年度本予算が審議され、知事与党からも厳しい批判がなされたことから予算の見直しを表明した。しかし、府議会各会派の足並みの乱れもあり、私学助成金や人件費のカットについて18億円の小幅修正を行った案が、共産を除いた主要3会派(土壇場で賛成に回った野党民主を含む)で可決された[51]。
「安全な地域づくり」を選挙戦で公約していた橋下は、2008年9月26日の定例府議会において、「大阪の犯罪情勢は依然として厳しい」との認識を述べた上で、「街頭犯罪ワーストワンを返上する」と明言[52]。翌2009年4月、警察・知事部局・教育委員会などが連携して行なう総合的な治安対策の司令塔として、府庁内に「青少年・地域安全室」を新設した[53]。翌2010年に大阪府は、11年間続いていた街頭犯罪件数全国ワーストワンと、35年間続いていたひったくり件数全国ワーストワンを返上[54]。大阪府の犯罪認知件数は、知事就任前である2007年の216,303件から、2010年には164,096件へと24%減少し、同時期に全国の犯罪認知件数が17%減少したことを上回った[55][56]。
知事任期中に実施された主な治安対策は以下の通りである[53]。
警察官定数について、2008年4月に策定された「財政再建プログラム試案」では520人の削減が盛り込まれていたが、大阪府警や府議会の強い反発を受け撤回[60]。その後は一転して、2009年12月17日に橋下自ら警察庁に赴き安藤隆晴警察庁長官に警察官定数増を要望。[61]2010年度当初予算で102人、2011年度には86人と、警視庁に次ぐ規模の警察官増員を計上した[62][57]。
2008年3月24日、橋下は大阪府議会警察常任委員会に出席。大阪府知事が警察常任委員会に出席するのは30年ぶりであった[63]。委員会で橋下は、暴力団について「暴力を背景とする脅しを武器に、国民や企業、近年では行政機関等から不当な利益を得ている集団であり、暴力団こそまさに府民の敵、社会の敵である」と述べた上で、「公共調達における暴力団の関与については、府民の貴重な税金が暴力団の資金源となる可能性もあり、非常に憂慮すべきこと」、公共事業の下請け業者からの暴力団排除を「府警本部とも協議しながら進めていく」と語った[64]。
2010年9月の定例府議会において、暴力団の「下請けを含めた公共工事からの排除」という独自の規定が盛り込まれた[65] 大阪府暴力団排除条例が可決・成立、2011年4月1日から施行された[66]。
2010年8月12日の記者会見で橋下は、暴力団の資金源とも指摘される貧困ビジネス[67]を規制する条例を検討していると表明した。橋下は府の担当部局から、貧困ビジネスは「民間対民間の取引なので(規制は)できない」と言われたため、「自分で(条例案の)ドラフトを書いた」と明かし、「福祉担当者や弁護士がこの条例を元に、悪い業者と戦うことができる」と説明した[68]。その後、10月27日の定例府議会において、貧困ビジネスを規制する全国で初めての条例「大阪府被保護者等に対する住居・生活サービス等提供事業の規制に関する条例」が可決・成立[69]、2011年2月1日から施行された。
大阪府庁を大阪ワールドトレードセンタービルディングへ移転する提案を出したが、条例は2009年3月議会で否決された(入居を見込んでいたビル側はこれにより会社更生法適用が確実となる)。直後の記者会見で「やっぱり日本は北朝鮮じゃないってことですよ。何でも思い通りに物事を進めたら独裁者になってしまう」と発言。引き合いに出されたことを抗議しながら生徒保護を求める文書を朝鮮学校保護者会「大阪府オモニ会」から手交された[71]。 これを受けて、北朝鮮によるミサイル発射の際、「大阪にも多くの北朝鮮籍の人が住んでいる。言論の自由が保障されている日本に住む北朝鮮籍の人は、北朝鮮の今の体制について厳しく批判しないといけない。国民に変える気概がなければ、国は変わらない」と述べた[72]。
2008年3月の府議会で、橋下は「私はいわゆる同和地区で育ったが、同和問題は全く解決されていない。ただ、差別意識があるからといって、特別な優遇措置を与えていいのかは別問題。一から総点検していただく」、「この問題に真っ正面から取り組まないと人権問題、同和問題は解決しない。逃げてはいけない」と述べた[73]。
2008年8月7日、府連との政策懇談会を大阪府庁内の会議室で開き、 部落問題解決に向けた施策のあり方などについて意見交換した。橋下は「いわゆる同和地区で育ってきた。都道府県の知事のなかで同和問題について一番知り尽くしていると自負している。みなさんの協力をいただきながら、できる限り解決していきたい」と述べ、戸籍謄抄本などの不正取得防止へ本人通知の制度を考えたいとの意向も示した。また、差別意識をなくすために何が必要かのやり取りの中で、「部落差別の根本は「血」への差別だが、それはなくなってきている」と述べ、「経済的困窮者が集まってきているところという外形的な差別に切り替わってきていると思う」と持論を展開した[74]。
関西国際空港活性化の要望をするために出向いた際、関西三空港のあり方について記者団に対し「伊丹空港の廃止も含めて検討し、きちんと方向を出さないといけない」と述べた。一時は撤回したが、2009年に再び伊丹空港の廃港を主張し、兵庫県の井戸敏三知事と対立する[75]。
府知事選出馬前、雑誌「フライデー」に無断撮影されたことで光文社を肖像権侵害で訴えたが敗訴。控訴しない旨を明らかにし、判決が確定した。また、7月25日、橋下の肖像画を無断使用したお菓子を池田市の第3セクターが販売しようとしたのに対し「法的措置も辞さない」とした。しかし翌日になって「盛り上がるなら使ってもらってもよいが、品質保証はできない」と述べ、肖像画使用を黙認。この騒動について、本人は池田市長との出来レースだったと述べている。
2009年7月30日、2008年度の普通会計の実質収支が11年ぶりに119億円の黒字になった事が明らかとなった[76]。主な要因としては、人件費抑制などが挙げられる[77]。
しかし同年10月28日、橋下は記者会見で、実際には基金からの借入金が約1500億円あったとして黒字化を事実上撤回した[78]。この件に係る経緯は以下の通りである。
2010年2月8日、府が財政赤字を隠すために、5つの公社への貸付金を年度末の3月31日にいったん全額返済させて歳入とし、新年度の4月1日に改めて貸し付けていたことが府の包括外部監査で「不当な操作」と指摘された。この一時返済がなければ853億円の赤字であった[85]。この件に係る経緯は以下の通りである。
[89]。
2009年10月から翌2010年2月にかけて報道が相次いだこれらの不適切な会計処理に関して、橋下は2010年2月16日の記者会見で、「公会計システムがでたらめである」とし、「明治以来続いてきた現金主義」や「出納整理期間とかわけのわからない期間」などを問題点として挙げ、抜本的な改善を総務大臣に訴えていくと語った[98]。同年3月3日、内閣府の第2回地域主権戦略会議に出席した橋下は、地方自治制度改革に関する提案書を提出[99]。その中で、「複式簿記・発生主義会計の導入」「出納整理期間の廃止」を提案している[100]。
なお、2010年度決算において大阪府は、「特定目的基金からの借入」と「公社への短期貸付金」を見直した上で[101]、普通会計の実質収支で274億円の黒字見込みであると報じられている[102]。
自治体の公会計制度について、「民間の収入と公会計の収入が全然違うことに非常に戸惑いを感じる」と、その判り難さを指摘していた橋下は[103]、新しい会計制度の導入を検討。大阪府は当初、総務省が2006年に公表した新地方公会計「基準モデル」を採用する方針だったが、橋下は「財務マネジメントに生かせる会計制度にすべきだ」として[104]、出納整理期間などの問題点が指摘されていた[105] 総務省基準モデルの採用を見送り、東京都が2006年から採用している新公会計制度を参考に新システムを構築することを目指した[104]。
2009年4月17日、東京都の石原慎太郎知事は記者会見で、「大阪の橋下知事から(東京都と同じ会計制度を)導入したいと言われた」と明かした上で、「先進国で複式簿記・発生主義をやってない国は日本だけ」「会計制度そのものを変えないと国民の不安・不満は解消できない」と、かねてからの持論を展開。さらに石原知事は、会計制度改革について「特に大阪が熱心」と述べ、都の関係者を大阪府に派遣してサポートする意向を示した[106]。一方の橋下も同月28日の記者会見で、府の会計制度改革について「共同で、連携で東京都とやっていく」と明言[107]。同年6月1日には「大阪府新公会計制度プロジェクトチーム」を府庁内に発足させ[108]、大阪府と東京都の間で関係職員の相互派遣を開始[109]。 同年12月25日、新公会計制度導入に向けた中間報告を取りまとめ[110]、翌2010年8月16日には「大阪府の新公会計制度案」を公表した[111]。
大阪府の新公会計制度案では府の事業を251に分類し、事業ごとに人件費も含めた収支を計上。借金も府の収入に組み込まれるこれまでの単式簿記・現金主義から、複式簿記・発生主義へと転換。固定資産についても、サービス能力の低下に応じて帳簿価格を減額する減損会計を導入し、府債の残高や利払いの状況も実態に即して解り易く表記するように改めるとした。新制度について、大阪府は2011年度にシステムの試験運用と職員研修を行なった上で、2012年度からの本格導入を予定している[104]。
橋下はこの新公会計制度を「全国に波及させていきたい」と述べており[112]、国に対しては、2009年10月30日に行なわれた総務大臣とのテレビ会議の中で、「公会計制度を、きちんと組織マネジメントができるような、企業会計原則に近い正確な情報を出す制度にしないといけない」と発言、原口一博総務大臣(当時)は「公会計制度の抜本改革については、バランスシート経営、それからキャッシュマネジメントという考え方を入れていかないといけない」と応じている[113]。また、全国知事会に対しては、同年11月12日に行なわれた全国知事会の行政改革プロジェクトチーム会議において、「複式仕訳に基づく新会計制度の早期導入を、先進県の協力の下、全都道府県で検討」すべきと提案している[114]。翌2010年11月11日には、大阪府と東京都との共催により都庁で行なわれた「公会計制度改革シンポジウム」で、全国の自治体関係者など約500名を前に講演。「現金主義の官庁会計では財務情報が見えず、単年度の資金繰りの帳尻合わせに終始してしまう」「民間企業では当たり前の複式簿記・発生主義による財務諸表を作成し、正確な財務情報を明らかにすることで、将来を見通した地域経営が可能となる」「財務マネジメントを実践し借金漬けの運営から脱却していくには、会計制度の改革が必要である」と語った[115]。
横浜市の中田宏元市長や松山市の中村時広前市長(現愛媛県知事)らとともに「首長連合」を結成する。「首長連合」は2009年の衆院選で民主党への支持を表明したため、大阪府知事選で橋下を支援した自民公明両党から「裏切りだ」との声が上がった[116]。選挙後、落選した中山太郎自民党大阪府連会長は「考えもしなかった態度」「信用できない」と橋下を非難した[117]。
「あくまで個人的な見解」としながらも、普天間飛行場の関西国際空港への移設について「国から正式な話があれば受け入れる方向で考えたい」と述べた[118]。また、同時に神戸空港の活用についても言及したところ、神戸市の空港事業室長から知事あてに抗議電話があったとし、「公務員が政治家に厳重抗議するのはおかしい」と批判した[119]。なお、この件では、神戸市室長は「抗議するとは言っていない」と困惑した[120]。
2010年1月12日、公明党の年賀会で「競争力のある大阪にするためには、一度大阪府を壊す必要があるし、大阪市も壊す必要がある。来たるべき統一地方選挙において、大阪の形を1回全部解体して、あるべき大阪をつくりあげる」と述べ、府と市の枠組みを取り除き、広域行政によって「ひとつの大阪」を目指す考えを示した。その上で、きめ細かな住民サービスを行うため東京23区のような特別区の導入も検討しているという。橋下は2011年春に行われる大阪府議会および23の市町の選挙(統一地方選挙)に向けて大阪の形を変えていきたいと主張し、政治グループを立ち上げる決意を示し[121]、2010年4月19日、大阪都構想の実現を掲げる地域政党大阪維新の会を結成、自らが代表に就任した。
詳細は「大阪都構想」を参照
「ギャンブルを遠ざける故、坊ちゃんの国になった。小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」 「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」 等と述べ、賭博の合法化と大阪花博を機に行政指導により撤廃された風俗街の復活を訴えた。
| 最高裁判所判例 | |
|---|---|
| 事件名 | 損害賠償請求事件 |
| 事件番号 | 平成21(受)1905 |
| 2011年(平成23年)7月15日 | |
| 判例集 | 未掲載 |
| 裁判要旨 | |
| 弁護士であるテレビ番組の出演者において特定の刑事事件の弁護団の弁護活動が懲戒事由に当たるとして上記弁護団を構成する弁護士らについて懲戒請求をするよう呼び掛けた行為が,不法行為法上違法とはいえないとされた事例 | |
| 第二小法廷 | |
| 裁判長 | 竹内行夫 |
| 陪席裁判官 | 古田佑紀、須藤正彦、千葉勝美 |
| 意見 | |
| 多数意見 | 全員一致 |
| 意見 | 竹内行夫、須藤正彦、千葉勝美 |
| 反対意見 | なし |
| 参照法条 | |
| 弁護士法58条1項 | |
2007年5月27日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』において、「あの弁護団に対してもし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」、「何万何十万という形で、あの21人の弁護士の懲戒請求をたててもらいたいんですよ」と山口県の光市母子殺害事件の弁護団に懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけた[注釈 16]。これによりテレビやインターネットなどで、「懲戒請求書の記載の仕方」を見た人たちの懲戒請求書約7,558通(前年の2006年度中に全弁護士会に来た懲戒請求総数の6倍以上)が殺到することになった[154]。
これに反発した弁護団のうち4人が業務を妨害されたとして、2007年9月、橋下に1人当たり300万円の損害賠償を求めて広島地裁に提訴した。橋下は「発言に違法性はない」、「懲戒請求は市民の自発的意思」、「自身のテレビでの発言と一般市民の懲戒請求の間には因果関係はない」などと反論した。
後に橋下自身は懲戒請求していなかったことが明らかになり、そのことを批判されたが、その理由について「時間と労力を費やすのを避けた」[155]、「自分がべったり張り付いて懲戒請求はできなくはないが、私も家族がいるし、食わしていかねばならないので…」などと釈明した[156]。
この懲戒請求呼びかけについて、ジャーナリストの江川紹子は「請求の内容によっては、懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もあるという負担やリスクを説明せず、ただ『誰でも簡単にできる』と気楽なノリでしゃべっている」、「「世間」を煽っている感じさえする」などと批判[157]。
同年8月6日、橋下は弁護団が開いた緊急報告集会に出席していたが、その場では「安田弁護士が最高裁の弁論を欠席したこと、これは究極の弁護方針として、弁護戦術として、これはもうもっともだと思う」などと発言していたが、翌8月7日の自身のブログにおいては、自分たちだけが正義の実現者だと思い上っているとして、「この集会はカルト集団の自慰(オナニー)集会だね。」と酷評した。また、「チンカス弁護士」「オタク法律家」「法律オタクのお坊ちゃん弁護士」などと述べた[158]。
また、横浜弁護士会が懲戒請求者に対して住民票の提出を要求したことに対して、自身のブログで「横浜弁護士会のインチキ野郎」「偽善に満ちた行為」と激しく非難[159]。
懲戒請求自体は弁護団を懲戒するだけの事由及び信憑性が無かったとして各弁護士会で次々と却下されており、懲戒処分された弁護士は1人もいなかった。これに対し橋下は、『たかじんのそこまで言って委員会』2007年12月9日放送分において、「7,000通も(懲戒)請求が出ているのに何にも意味が無いんだ」と懲戒請求制度及び弁護士会の態度に不満を洩らしている。 同年12月17日、今度は反対に、市民約350人が「刑事弁護の正当性をおとしめたことは、弁護士の品位を失うべき非行だ」として、大阪弁護士会に橋下に対する懲戒処分を請求した[160]。橋下弁護士が懲戒請求をよびかけた弁護団の中に兄弁護士にあたる先輩がいた事から、橋下弁護士の最初の勤め先の親弁護士であった樺島弁護士も、この橋下弁護士に対する懲戒請求に名前を連ねている[161]。その後2009年4月14日、弁護士会綱紀委員会は懲戒相当である旨議決[162]。2010年9月17日、業務停止2ヶ月の処分が下った[163]。 また21日、処分内容が一部マスコミに漏れた点を問題視し、大阪弁護士会会長に対しても懲戒処分申し立てをした[164]。「弁護士会の品位の基準と僕の基準は違う」とまで発言している[165]。
なお、2008年3月18日、広島弁護士会に請求申し立てされた7弁護士への懲戒請求は、「弁護士らの活動は職責を果たすもので、適正な刑事弁護」であるとして認められない事が正式に議決された。また、2008年10月2日、広島地裁は弁護士たちの損害賠償請求を認め、橋下に対し原告1人当たり200万円(合計800万円)の賠償を命じる判決を下した[166]。これを受け、発言について反省している旨を述べたが、「高裁の意見も聞いてみたい」として控訴した。のちに控訴は棄却された。 2009年7月に2審・広島高裁判決は合計360万円の支払いを命じたが、最高裁判所が2011年6月に弁論を開き、竹内行夫裁判長が2011年7月15日の判決で、原告の請求を認めた1審・2審判決を破棄し、原告の請求を棄却する逆転勝訴の判決を言い渡した[167]。
2006年5月23日、本業である弁護士業務の経費計上等にかかわる約2500万円の申告漏れを大阪国税局から指摘され、修正申告に応じたと産経新聞[168]に報道された[注釈 17]。 これについて、橋下は自身のブログで「税務調査によって、過去3年間の実際に支出した経費の一部を税務上の経費からはずした結果、(名目上は)過去3年分の所得が(2500万円)増えたことになるが、実際には支出しているから手元に残っていない。しかも、飲食ではなく法律業務に使ったのであって、それを意図的な所得隠しや架空経費の計上で税金をごまかす『申告漏れ』と同一視した」と反論した。また「『申告漏れ』という報道が一般には『脱税』と受け取られやすいのに、情報の受け手のことを考えない(自己満足的な)情報を発信した」という意味で産経新聞を「情報の受け手のことを考えて情報を発信しやがれ、このオナニー新聞が!」と罵倒し、産経の記者の実名を挙げ批判した。また、記者が情報を得たと思われる税務当局の人物を特定したと書き、その税務署員と産経の記者が国家公務員法に違反すると断じた[169][170][注釈 18]。ブログでは、産経新聞に対して「法的手続きも検討している」と述べていたが、現在まで法的手続は取っていない。橋下の抗議により産経新聞は同年7月8日付け朝刊で、経費請求した名目や内容をそれぞれ「タレント活動に必要などとして」「飲食代などの」としていた箇所を省くとした訂正記事を掲載した。
さらに、この件を報じた『週刊文春』(2006年6月15日号)が、マスメディアでは公開していなかった橋下の家族のプライバシーを明かしたことについて、取材した記者の実名を挙げ「この問題は脱税事件などの違法性を帯びた社会的な事件ではないのに家族のプライバシーを侵害した」として、「三流以下の死に体週刊誌」「魂の欠けたジャーナリズム」と厳しく非難した[171]。
府知事就任3日目にNHKで生放送(関西ローカル)されたテレビ番組『かんさい特集 「新知事・市長に問う 大阪の、これから」』に出演した際の状況から、同局に対する今後のスタジオ出演には出ない旨の発言をした。
2008年2月9日、同番組に出演した橋下は、元鳥取県知事片山善博、大阪市長平松邦夫、上山信一(慶應義塾大学教授)らが出演していた討論の途中でスタジオ入りした。事前に遅れることをNHK側も承知していたことであったが、登場した橋下に司会のNHKアナウンサー藤井彩子は「ちょっと遅刻ですけども、およそ30分で遅刻して到着されました」と紹介した。橋下はこれらの言動に対して激昂し、同日行われた記者会見で、東京での公務がある為に出演が遅れる事は依頼があった日から再三NHK側に伝えてあった事、NHK社員が公務中や移動中でも執拗に公務を切り上げて早く出演してくれと迫ってきた事、女性司会者の言動、現場のプロデューサーやディレクター及びスタッフの挨拶が無い事などを挙げ、今後NHKの番組への出演はしないと発言した(取材は受けるという)。この後、藤井は番組の降板を余儀なくされ、東京アナウンス室に配置転換された。
これに対してNHK大阪放送局広報部は、「発言は場を和ませようとしたもの、挨拶はしている」とコメント。藤井アナウンサーは高校時代の橋下の同級生である。
同日の関西テレビでは、やしきたかじんがホストを務めるバラエティー番組『ムハハnoたかじん』が、NHKの生番組(19時30分番組開始)とほぼ同時刻の19時29分番組開始で放映されていた。そちらは約30分の録画放送で19時57分まで放映されており、橋下は大阪市長平松邦夫とともに出演していた。また、橋下は同番組に大阪府知事に立候補する直前までレギュラー出演していた。
2009年10月1日、府の全職員に、府内のダム建設費用に関して、以下のメールを一斉送信した。(抜粋)「水需要予測の失敗によって380億円の損失が生まれたことに関しても、恐ろしいくらい、(職員の)皆さんは冷静です。何とも感じていないような。民間の会社なら、組織あげて真っ青ですよ!!(略)何があっても給料が保障される組織は恐ろしいです……」。これに対して、翌日、女性職員から知事あてに、反論のメールが送信された。すると同日知事は、「まず、上司に対する物言いを考えること。私は、あなたの上司です。組織のトップです。その非常識さを改めること。これはトップとして厳重に注意します。あなたの言い分があるのであれば、知事室に来るように。聞きましょう」と返し、批判合戦となり、8日には、「トップに対する物言いとして常識を逸脱している」として、女性職員を厳重注意処分にした。この一連のやり取りに関して、府に寄せられたメール、電話の反響が、約700件に上った。
市民からの意見は、賛同派と批判派がほぼ相半ばした。知事に賛同する人たちからは「職員全員に社会常識を再教育すべきだ」「民間企業では上司と考え方が違う場合、失礼のないように意見し、通らなければ身を引くしかない」などの意見があった一方、「処分までは大人げない」「意見を求めながら、内容が気に入らないからと処分すれば、誰も意見を言わなくなる」といった知事批判もあった。府の担当者は、「これだけ賛否が分かれる反響は初めて」と話した[172]。
2010年7月14日、サッカー・ワールドカップ(W杯)で日本代表選手として活躍した遠藤保仁選手(当時ガンバ大阪所属)に「感動大阪大賞」を贈った際、贈呈式直前、遠藤選手を知事室に招き入れ、当時小学生と幼稚園児だった自分の子供3人に会わせた。3人ともサッカーファンで、知事自ら誘ったという。8月25日の定例記者会見で明らかにした。
この日の記者会見で、「公私混同ではないか」と問われた知事は、「知事職が(プライベートと仕事を区別しにくい)公私混同で、僕の子供は一般家庭とは違う制限を受けている。個人ではなく、政治家のファミリーとして見てほしい」と述べた。
「サインが欲しいほかの子供と比べて不公平では」との指摘には、「その子供のお父さんに知事になってもらい、(制限を受ける)苦しい親子関係に耐えてもらうしかない」と反論した。
橋下知事には7人の子供がおり、これまでも公務でプロ野球の始球式を行った際などに子供を連れて行き、一緒に試合観戦をしたり、サインボールをもらったりすることがあったという。識者からは「公私混同だ」との批判も出ている[注釈 19]。 また、公用車を使い、昼間にスポーツジムに通っている。
2011年5月24日、議員定数をめぐる議論に関連し「鳥取県は60万人くらいの人口で、議員が40数人いるんですかね。鳥取県議なんて6人でいいんですよ」と発言。府庁で記者団に述べた[173]。
この発言を受け、鳥取県の平井伸治知事は24日午後、知事公邸で緊急記者会見し「大阪の人が鳥取県の自治について議論するのは差し出がましい。大きなお世話だ」と不快感を示した。平井知事は「簡単に人口で割りきる議論は、デリケートな地方自治にはなじまない。そんな暇があるなら大阪府の自治についてしっかり議論してほしい」と批判した[174]。発言に抗議するのかと問われると、平井知事は「橋下さん流のパフォーマンスだろう。いちいち付き合ってるひまはない」と否定。発言の趣旨について「大阪府の議会の議員を減らす以上のことを言うつもりはないのではないか」と一定の理解を示した[175]。
橋下は5月26日、大阪市内で開かれた関西広域連合の会合で、自身の発言について、鳥取県の平井伸治知事に謝罪した。会合の冒頭、橋下はテレビ中継で参加した平井知事に対し、「すいませんでした。僕の個人的意見で、暴走した発言だった。府庁の幹部や大阪維新の会のメンバーからも怒られた」と釈明した。平井知事も「都市と地方の違いに考慮してもらえれば」などと述べた[176]。
2011年6月29日夜、大阪市内のホテルで行われた政治資金パーティーで大阪府知事・大阪市長のダブル選挙に関して、「大阪市が持っている権限、力、お金をむしり取る」「大阪は日本の副首都を目指す。 そのために今、絶対にやらなければいけないのは、“大阪都”をつくることだ」「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」と述べ、大阪都構想に反対する大阪市を抵抗勢力だとして「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ」と締めくくった[177][178]。この「独裁発言」に平松邦夫大阪市長は「絶句した」[179]と述べ、「“大阪都構想”は中身がない、妄想だ、と言ってきたが、その通りだったことを自ら認めた。市民のためでも府民のためでもなく、自分のため、というのが独裁だ」と批判した[180]。
3男4女の父親であり、子だくさんとしても有名である。本人と夫人曰く「ライバルは『笑点』の山田隆夫と堀ちえみ」(子沢山で知られる山田は4人、堀は5人)[注釈 20]。
などと笑いをさそう発言する一方で子煩悩ぶりが評価されることも多い。2006年の6月にはベストファーザー賞(イエローリボン賞)を受賞した。[189]。
家系
橋下姓について
実父・叔父について
継父 ┃ 母 ┏妹 ┣━━━┫ ┏実父 ┗橋下徹 祖父━━━┫ ┃ ┗叔父 ┣━━━━三男四女 ┃ 妻
その他多数
その他多数
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 平松邦夫 |
2011年 - |
次代: 現職 |
| 先代: 太田房江 |
民選第17代:2008年 - 2011年 |
次代: 松井一郎 |
| 党職 | ||
| 先代: 結成 |
大阪維新の会代表 初代:2010年 - |
次代: 現職 |
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