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殷(いん、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には夏王朝を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝である[1]。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう)とも言われる。
目次 |
「殷」とは周などによって使われた他称であり、『史記』では一貫して殷である。一方、商が自称であるという見方も成り立つことから、現在の中国ではほぼ「商」もしくは「商殷」と呼ばれる。商の名前は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ[2]、殷墟の甲骨文から都を商または大邑商と呼んでいる事例は確認されており、周は殷の都を商邑と呼んでいる。しかし、確定的な解釈があるわけではない。なお『尚書』では「商」が使われている。
王家の姓は「子」であったといわれているが、殷では王族を子鄭、子商などと称し、これは「子」字に領地と思しき地名を付しているようで、おそらくこれを姓と誤解したのではと考えられている。姓は「好」との説もある。
詳細は「亀甲獣骨文字」を参照
20世紀初頭まで、殷は伝説上の王朝とされていた。特に19世紀末期の中国古代史界では疑古派と呼ばれる『過去の記録を疑う』方針の考えが強く、『史記』の記述も全て架空と考えられていた。その後、甲骨文字(亀甲獣骨文字)の研究が始まり、発見された甲骨に、『史記』の記述とほぼ一致する対応関係が見られたため、殷の実在性が疑いのないものとなった[3]。
「二里岡文化」を参照
考古学の進展により、二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)を殷と同定するのが通説である[4]。鄭州付近を商(殷)王朝の初期の中心地と考えており、二里岡文化を商王朝の初期段階ととらえている。
以下、史書に基づく。
伝説上、殷王朝の始祖は契とされている。契は、有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。
その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また、契から天乙(湯)までの14代の間に8回都を移したという。
契から数えて13代目の天乙(湯)は、亳(現在の河南省商丘市)に都していた。湯は賢人伊尹の助けを借りて夏王桀を倒し、諸侯に推挙されて王となった。
殷の4代目の王太甲は、暴君であったために伊尹に追放された。後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。
王雍己の時に、王朝は一旦衰えた。王雍己の次の王太戊は賢人伊陟を任用し、善政に努めた。殷王朝は復興した。王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。
中宗の死後、王朝は再び衰えた。王祖乙は、賢人巫賢を任用し、善政に勤めた。殷王朝は復興した。
王祖乙の死後、再び王朝は衰えた。王盤庚は殷墟に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。
王盤庚の死後、再び王朝は衰えた。王武丁は賢人傅説を任用し、殷王朝の中興を果たした。王武丁の功績を称えて、王武丁は高宗と称された。
高宗以降の王は概ね暗愚な暴君であった。殷王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妲己という美女に溺れ、暴政を行った。そのため、周の武王に誅された。そして、殷王朝はあっけなく滅亡した。
紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は、武王の兄弟とともに反乱を起こしたが失敗し、誅殺された。その後、禄父(武庚)の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、殷王朝の祭祀を続けた。微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。異説もあるが、その微仲衍の子孫が孔子とされ、その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。
紂王の叔父箕子は朝鮮半島に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、中国人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、大韓民国側は檀君朝鮮こそ初の朝鮮王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。
商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来する。店舗を持たず、各地を渡り歩いて物を売っていた人間を、人々が「あれは商の人間だ」と言っていたことから「商人」という言葉が生まれた。こういった説があるが、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が、国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。
周が殷を滅ぼしたのは具体的に何年の出来事かを推定する作業が進められている。中国の夏商周年表プロジェクトはこの出来事を紀元前1046年であるとした。
古い説では『竹書紀年』に武王から幽王(西周最後の王)まで257年という記述があり、幽王が死んだのが紀元前771年のことなので殷が亡んだのは紀元前1027年の出来事となる。また『漢書』には周は867年続いたという記述があり、これからは紀元前1123年の出来事となる。
それ以外にも多数の説があり、殷滅亡を一番古い時代に置くのは紀元前1127年、最も新しい時代では紀元前1018年となっている。
殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。
殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員たちが武器をとり、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。
強大な軍事力を誇った殷王朝は、度重なる戦争に勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させていった。その中で特筆すべきは、「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術である。殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。『呂氏春秋』によると殷の湯王が夏の桀王を討ったとき、「良車七十乗(輌)、必死(決死隊)六千人」があったといい、「令三百射」「到三百射」と記載された甲骨文があることから、一度に戦役に出撃した戦車は300輌にも達していたことが伺える。
戦車は歩兵と共同して戦いを行った。1輌の戦車には3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、戦車が5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。戦車の運用法では「三師戦法」が編み出され、これは軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して敵に対処するというものだった。
軍備については戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀などが使われた。その他でも殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、そのため重装化が進んだ。殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。[5]。
This text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. Last update: 2012年2月15日 1:17:02:JST