| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 京都府竹野郡網野町(現・京丹後市) |
| 生年月日 | 1935年6月29日(74歳) |
| 身長 体重 |
175cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 1954年 |
| 初出場 | 1954年6月17日 |
| 最終出場 | 1980年10月3日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
選手歴
|
|
|
|
|
監督歴
|
|
|
|
|
野球殿堂(日本)
|
|
| 選出年 | 1989年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
|
この表について
|
|
野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。血液型はB型。
現役時代は1954年から1980年の27年にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。
引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球のシダックス野球部、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。京丹後市名誉市民。
2010年からはサンケイスポーツの野球評論家。東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督にも就任[1]。
目次 |
愛称は「ノムさん」。あるいは「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。現妻はタレントの野村沙知代。息子は現・読売ジャイアンツ(以下、巨人)2軍バッテリーコーチの野村克則。前妻の間にも男子が1人いる。継子にはプロ野球エージェントの団野村、ケニー野村がいる。
通算試合出場数は日本プロ野球歴代1位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。球史に名を残す選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。
現役・解説者時代は巨人をけなす発言を繰り返しているが、実際は幼少のころからの巨人ファンである。著書「巨人軍論」によれば、幼少時代はラジオから聞こえてくるプロ野球中継は巨人の試合しかなく、そのため自然と巨人ファンになったという。例として息子の克則が2004年に巨人に入団する際、堀内恒夫が新監督に就任したことを絶賛していた。しかし、自身がプロ入りする際は捕手の層の厚い巨人に行くことは諦めたという。また、「サインプレーやデータ活用など、かつて球界の先駆者だった巨人が理想のチームである」という。
自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。多くの野球人の中で、野村ほど第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、自著本など数え切れないほどの仕事をこなす人物は類を見ない。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手1位の出場数を記録し、プレイングマネージャーまで兼ねており、監督としても試合記録を通算3000試合の大台に乗せている。
家業は食料品店であった。父・要一は野村が3歳の時に満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく劣等感にさいなまれる。看護士だった母は病弱で癌も患うが、小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をし父の戦友の助けと、母の糸繰りの仕事で何とか生活した。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。中学2年のときに野球部に入り、次第に周囲から注目される。中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより京都府立峰山高等学校に進学する。母に内緒で野球部に入部するがばれて退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り素振りをしていたという。野球部は大変弱く廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人だけが返事をくれた。
1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。大ファンだった巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。捕手層が薄く高齢化していた南海なら1軍のレギュラーになりやすいと考えた。なおテストには落ちていたがキャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したことと、高校の顧問が手紙を送った南海の鶴岡一人監督(当時は山本姓)の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったという。
当時の南海は鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。その年のシーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだ、でも若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。
しかし肩が弱かったため秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目の秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。
3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで1軍に抜擢されたのをきっかけに正捕手に定着した。
打撃不振に陥った頃、テッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手には球種によりモーション時に癖を見せる」という一言があり、これをきっかけに投手の癖を研究するようになった。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリで稲尾を撮影し研究した。このことが後に、野村本人が確立したID野球の基礎を作り上げた。
1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。
1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を記録。ともに最終戦、最終打席で近鉄の山本重政から打ったものだった。52本塁打は翌年王貞治に55本でプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが55本で更新するまで長く残っていた。
1965年には戦後初めての三冠王に輝く。
当時のパ・リーグにおいて西鉄の中西、豊田泰光、毎日(後に大毎)の山内、田宮謙次郎、榎本喜八、東映の張本勲、大杉勝男、阪急のダリル・スペンサー、長池徳士、近鉄の土井正博、永淵洋三といった強打者がひしめく中で三冠王や8年連続本塁打王などの実績を残した。
しかし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7000人ほどであった[2]。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった[3]。
多くの打撃に関する記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(現日本記録の55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。
また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、トリプルスチールは2回ある。
活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は他球団に先駆けてデータを集め、活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。
投手の癖を盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手の癖を盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心の末に癖を見破れば、稲尾はそれに気付いて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。
オールスターゲームでもパ・リーグ捕手の地位を最大限に利用し同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに球を投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。
捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うこともあった。最初の頃は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督も「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後鶴岡と西本の会談が開かれて脅しは止んだ。
その後、私生活など集中力を乱す方向へ変更された。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村がささやき戦術を使うようになったのは、1950年代当時、同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にしたためといわれる。ライバル選手の私生活に関する情報収集のため、東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せる選手の情報を仕入れるのが常だったと、2003年9月に『NANDA!?』に出演した際に語っている。
ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され(大杉は10歳年下である)、張本勲には空振りと見せかけてバットで殴られ(詳しくは後述)、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄に至っては違う話を持ちかけられたり、かみ合わない話をされるなど全く会話にならず、挙句の果てには指導と勘違いして本塁打を放たれたりした。そのほか、東映の白仁天が対策のため耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったというエピソードもある。
なお往年の大選手が語る大選手との興味深いエピソード、野村の多彩な手口ゆえ野村一人に日に当たっているが、もちろん「捕手が打者にささやいて集中力を削ぐ」といった戦術自体は野球発端の頃から存在した戦術である(野村と同世代では阪神辻佳紀などが行っている。後年有名となった広島の達川光男も、同時期に市川和正などが「ささやき戦術」を用いている)。
野村が今まで見た投手の中で最も球が速かったのは金田正一だと言っている(当時、MAX155km/hだと検証されている)。また、対戦した打者の中で一番恐ろしかったのは榎本喜八だと述べている。
1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという。また後にテレビ番組内で日本プロ野球最高年俸(放送当時)の話がでると、プレーイングマネージャー時代の年俸は5億円だったことを明かし、35年ほど前には現在の最高年俸者と同額の年俸であったとした。
監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年には大杉勝男に次ぐ42本塁打を放ち、1972年には打点王を獲得した[4]。
1973年には弱体化していたチームを立て直し、リーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただしこのシーズンの後期の阪急戦では1勝もできず、惨敗した試合ではベンチで笑みを浮かべるなど真剣勝負を疑われかねない行為もしたため一部では物議を醸し、「死んだふり」などと揶揄された。勝敗は二の次で相手方の作戦やサインプレーの研究に終始していたという。一方、選手としては監督兼任でありながら.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。
阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法は現在ではどの球団、更にはメジャーリーグでも採用しているが、最初に発明したのは野村だった。このころは野村の現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。
また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。江夏はこの年最多セーブ投手のタイトルを獲得し、この活躍はリリーフの役割が重視されるきっかけになった。
1977年9月28日、シーズン終了まで残り2試合、2位の時点で解任される。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」である[5]。沙知代は「ノムラ企画」を立ち上げホークス・グッズを制作・販売した他、「南海を優勝させる会」を結成し、選手の夫人らに参加を強く要請。更には、プロ入りを目標としていた前夫との間にもうけた息子のため、コーチ陣に技術指導までさせた。このことが野村を大事にしていた当時の川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至る。川勝はこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった。一方、野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執も原因の一つと考えられる[5]。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹2軍監督が代行した。
解任後、進退について大いに悩み多くの知人も終わりが大切と引退を勧めたが、以前より誘われていたロッテに移籍。野村一派と言われ解任に反対していた柏原純一は日本ハム、江夏は広島、コーチの高畠導宏は野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。
1978年、金田正一監督のロッテに移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。しかし若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約。このときロッテフロントから監督就任を要請されるが、金田らに遠慮して辞退したという。
1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。このとき同僚になった松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明[6]、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。
野村の著書によると、引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏1アウト満塁で野村の打順だったが、実働26年の選手生活で唯一の代打(鈴木葉留彦)を送られる。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後、代打策の失敗を祈っていた。野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つという犠飛を打つコツも体得していた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、帰途の車中で自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。
引退セレモニーは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学生の息子・克則が乗っていた。
なお、引退時まで着用していたヘルメットはそのまま球団に保管されていたが、5年後に入団する清原和博に引き継がれる。清原は西武入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合ったことによる。
1981年にTBSテレビ・TBSラジオ、1983年からはテレビ朝日の野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家を務める。また1981年から6年余り、週刊朝日で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、野球中継では初のストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。現在も解説者として出演する際には登場することがある)。またこの時期、講演や沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督に就任するなど公私にわたって活動した。1989年に野球殿堂入りする。
1989年の秋、野村の野球解説の鋭さを評価していたヤクルトの相馬和夫球団社長(当時)から監督就任の要請を受ける。南海時代に残っていた監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から開放されたい一心でこれを承諾する。 監督に就任した頃のヤクルトは、松園尚巳オーナー(1994年没)のもと投手の高野光、伊東昭光、荒木大輔、内藤尚行、加藤博人、川崎憲次郎、野手の広沢克己、池山隆寛、栗山英樹、笘篠賢治、橋上秀樹、長嶋一茂、秦真司、荒井幸雄など素質に恵まれた人気選手が多く、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたる負け越し・Bクラスの状態が続いていた。
そうした中での就任は、野村の暗い性格がチームカラーにあわないと懸念する声も多く、世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを受けた。また就任直後の12月に心疾患の疑いで一時入院すると早くも「野村の次の監督」を報道するマスコミも表れるなど、健康面での不安も囁かれていた。
1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語[7])を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司が外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。しかし心配されていた健康面の不安は出ず逆に太り、それまでのスーツを全部買い換えたという。
1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から今度は中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、西武の潮崎(哲也)のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。
1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。9月には故障から4年越しで復帰した荒木の起用もあった。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激戦の結果、西武に敗れた。この年に活躍した選手には前述の選手のほか、投手の西村龍次、岡林洋一、高津臣吾、野手のジャック・ハウエルらがいる。また、ベテラン選手の渋い活躍もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。
1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田・広沢・ハドラー・ハウエル・池山・荒井・飯田・秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、前半戦に新人の伊藤智仁が大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東・川崎・西村、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。日本シリーズは、前年に続いて西武と戦い、再び最終第7戦までもつれ込む激戦の末、遂に日本一に輝いた。
1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。
1995年は、前年オフの間に主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが巨人に移籍した。しかし投手の石井一久、テリー・ブロス、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー一塁手、前ロッテのヘンスリー・ミューレン三塁手、近鉄との間で西村投手とのトレードで獲得した吉井理人投手など移籍してきた選手が活躍。安定した戦いぶりでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、日本一になった。1996年は4位に終わる。
1997年の開幕(対巨人戦)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉篤紀、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑とともにダイエーから移籍した佐藤真一、青柳進、同じく1996年に西武から移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。1998年は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後、日本一→4位→日本一→4位→日本一→4位と日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。
独特のキャッチフレーズ、池山に本塁打を減らすバッティングを指導したというエピソード、脇役の個性的な面々などが特徴として挙げられたが、優勝する年は基本的に「助っ人外国人の当たり年」であり、高いチーム本塁打数・得点を記録。チーム防御率が下位に沈みながら日本一に輝いたケースすらある。前年の先発ローテ投手が2年連続で活躍することはほとんど無く、こうした「当たり年」に西村や伊藤智、岡林、川崎等、有望な投手を多く注ぎ込んだ結果、早期に投手生命の限界を見せる傾向も多かった。これについて野村は『エースの品格 一流と二流の違いとは』で、反省すべき点として挙げている。
1999年、三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。またヤクルト球団からも非難された。
1985年の日本一以降長く続く低迷状態を打破すべくチーム再建を高く期待され、就任時の会見ではフロントが「野村監督様」と紹介するなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。「野村TOP野球」をチームのスローガンとして開幕を迎えると直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(この純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。
また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、通称「遠山・葛西スペシャル」、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一塁を守っていた)などで話題を呼んだ。
1999年のオープン戦で、強肩の新庄剛志を「投手心理を理解させるため」ピッチャーとして起用したことは話題を呼んだが、野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「勝手にしろ」と事実上のゴーサインを出している。
2000年オフに、同年4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAでニューヨーク・メッツへ移籍するなど厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り込んだのはこの年である。
しかし、この年も最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。その件に対して、久能靖は、「監督不行届」と言った。結局、阪神監督としては3年連続最下位と順位の上では最低の成績で終わった。このことからヤクルト時代は戦力によって勝てただけと言われることもある。
F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地である阪神甲子園球場が広いということ、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。
なお、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。
いわゆる社交辞令的な場所やメディアの紹介では「阪神では常勝チームとなる礎を築き~」などと紹介されることが多いが、2003年の阪神優勝当時は野球評論家やファンからは「この程度で礎を築いたことになるのなら関根潤三氏(ヤクルト前監督)は神様だ」などといった手厳しい皮肉が後を絶たず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。
当時の阪神は1992年の2位を除き、1987年から1998年まで12年間で最下位が7度(4位が2回、5位が2回)と、絵に描いたような弱小チームであった。上述のように南海・ヤクルト時代ともに多少なりとも戦力は揃っており、チームの穴(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者など)を的確に見出してきたが、阪神は当時2割7分、20本塁打程度の新庄が絶対的な4番として君臨、彼のMLB移籍が痛手になるほど選手層が薄いチームであった。当時はプレーオフ制度なども存在せず、苦しい3年間となった。
投手陣では福原忍や若手で実績が無かった井川慶に大きな期待をかけていた。井川がエースとして成長したのは野村が監督をつとめた3年間である。当時話題になった「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しだったが、チーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々良化している。2003年、阪神優勝時のチーム防御率は3.53だった。
一方でチームの打力は年々低下した。新庄の移籍が痛かった、矢野輝弘に捕手として大きな影響を与えたといわれ、桧山をスランプから脱却させたなどといった擁護意見もあるが、2003年のチーム打率は補強の成果などもあったものの、チーム打率は.287と野村時代から4分も上昇しており、赤星や藤本や桧山であれば星野時代の田淵幸一の指導による本格的な打撃開眼、矢野であれば野村と同様に田淵や達川バッテリーコーチの影響なども大きいとされている。
「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)、ダレル・メイ(後に巨人移籍)、坪井(後に日本ハム移籍)ら主力選手、岡田彰布2軍監督との対立・確執が表面化。これらの野村と騒ぎのあった選手は野村退団後・もしくは移籍後ことごとく活躍してしまったことのほうが一般には有名である(こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田監督時代以降でも赤星、藤本、矢野、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた)。
前述のF1セブンなど、戦力的に使えないと思われる選手をなぜか優遇したことも貧打の一因となり、2002年オフに、星野はスタートダッシュに成功しながら失速して4位に終わり、フロントを説得して大量の戦力外通告を敢行している。
ただし、赤星、沖原らは野村本人がスカウトとして日本選手権等を視察してピックアップした選手であり、似たタイプの選手を獲得・積極的に起用したことが赤星の発掘につながっている。2003年の阪神優勝のさい、星野は「赤星のいないチームだけは考えられない」と語っている。
フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる。久万俊二郎オーナーは元々FAなどで日本人選手を多額の金銭で獲得することに渋っており、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していたが、野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。
また、後任として中日の監督だった星野を推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。また4番バッターについても広島からFAで金本知憲を獲得している。後任の星野もオーナーに直談判をし、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言したが、阪神の監督が久万オーナーに自ら会談したのは野村が最初である。
また阪神はOB会が強い権力を持ち、ダッグアウトにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、彼らとの確執があったともいう。
2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。
2002年秋から社会人野球チームシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。 就任当時のシダックスは弱小チームであり、走者が送球に当たってアウトになるなど凡ミスの連続だったが、野村は持ち前の理論を元にチームを徹底的に改革。また、解説者時代に培った豊富な人脈でキューバ人選手を獲得するなど大型補強を敢行し、チームは野村就任後わずか数ヶ月で社会人野球ベーブルース大会で全国制覇を達成、野村は史上初のプロ・アマ両方での日本一監督となった。このときの選手に、野間口貴彦や武田勝、オレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコなどがいる。
その後、都市対抗野球で準優勝するなど快進撃を続け、瞬く間に社会人を代表するチームとなった。2003年の都市対抗野球では野村采配見たさに社会人野球では異例の4万人のファンが押しかけ、東京ドームが満員札止めとなった。
2004年には日本が勝てなかったキューバの五輪金メダルチームに練習試合で完勝し、「シダックスこそが世界最強」とさえも言われた。 この試合では、野村は後にプロ入りする野間口貴彦や武田勝に比べて力が劣ったためにプロ入りできなかった杉本忠という無名のアンダースロー投手を先発させてキューバ打線を完封した。野村はキューバの打者がアンダースローが苦手だと見抜いていた。試合後、野村は「なぜ長嶋ジャパンはアンダースロー投手を代表に入れないのか」と選手選考を批判した。
その後も多くの社会人大会で優勝した野村シダックスだったが、野村は楽天監督就任要請を受けたために2005年10月3日、社会人野球日本選手権を最後にシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は、社会人野球界に大きな貢献をしたとして、2005年社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。
現在キューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものは大きいようである。
2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」などという事情から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に承諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代の監督となったのは仰木彬(2005年オリックス・バファローズの監督として1年間指揮を執ったものの、同年12月15日に死去)に次いで史上2人目、監督契約としては元太平洋クラブ(現・西武)のレオ・ドローチャーを含め3人目であり、1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。
監督就任に対し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。
2006年5月11日対横浜戦の8回裏に谷中が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに木内球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや退場処分になるところだった。5月16日に、フルスタ宮城で行われたセ・パ交流戦で、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトに凱歌が上がっていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝つと同時に、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。
また、かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方で記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。テレビのスポーツニュースでは毎回野村の試合後のコメントが伝えられている。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして「野村語録」が次第に常設されるようになった。
育成方針も基本的には叩いて伸ばすタイプだが、最近では活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈ることが多くなっているなど、以前とは違った面を見せ始めた(これは年齢を重ねていくに伴って「性格的に丸くなってきた」とする意見が多い)。ただし息子のカツノリを低打率弱肩であるのにもかかわらず起用し続けたことに関してはファンから猛烈な反発を浴びた。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、新設の2軍育成コーチに就任(その後、2008年に1軍バッテリーコーチに転身)。
2006年の公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録を作ってしまう。
2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを懸ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。これは球団側も聞かされていなかったという。米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村監督は監督就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年をかけてのチーム作りの方針を語ってきたが、2007年は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱するチームの計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うということなのか、という点については定かではない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調しているため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。
2007年シーズンでは、新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘、岩隈久志らのシーズン序盤の離脱の影響もあったが、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場靖弘、岩隈久志が一軍復帰したこともあり先発ローテーションを再編し、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井怜らをリリーフ転向させた。結果は球団3年目で初の最下位脱出となる4位となる。2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。
2008年6月29日、対ソフトバンク戦では球団史上最多の20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」の企画の一環で、1963年に当時の日本記録である52本塁打を達成した西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現する形でイベントが行われた。豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた。7月15日、対日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3000試合出場を達成、選手としても通算3017試合に出場しており、日米ともに例のない、選手・監督両方での通算3000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、ドミンゴとフェルナンデス(中村紀洋をFA獲得)が退団。
2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新戦力投手全員が、オープン戦前に怪我してしまい、片山博視や青山浩二といった期待される若手もキャンプで出遅れたうえ、昨年活躍した新守護神川岸強も公式戦後すぐに体を痛めるなど、投手に関しては指揮を執って以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介やリック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。
開幕当初はチーム初の開幕4連勝を果たす好スタートを見せ、4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗を喫し、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出決定。同9日のオリックス戦で2位が確定し、CS第1ステージの地元開催権を獲得する。しかし、その翌々日・11日のレギュラーシーズン最終戦(対ソフトバンク=Kスタ宮城)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、10月21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニー後、楽天・日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。11月2日、楽天の新監督に広島の前監督マーティ・ブラウンの就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾することとなった。 2010年からはサンケイスポーツの野球評論家を務める。[8]
2010年1月24日には、自由民主党の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と昨年の衆院選敗北を分析。自民党をかつて「球界の盟主」と言われた巨人軍に例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土(けんど)重来、頑張ってください」とエールを送った[9][10][11][12][13][14]。また、小泉進次郎衆議院議員を「実にしっかりしている」と称賛。さらに、「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」とぼやいた[15]。
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954 | 南海 | 9 | 11 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | 5 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1956 | 129 | 403 | 357 | 33 | 90 | 26 | 3 | 7 | 143 | 54 | 3 | 3 | 4 | 5 | 36 | 6 | 1 | 66 | 8 | .252 | .318 | .401 | .719 | |
| 1957 | 132 | 542 | 474 | 75 | 143 | 20 | 1 | 30 | 255 | 94 | 7 | 2 | 1 | 1 | 57 | 0 | 9 | 87 | 7 | .302 | .386 | .538 | .924 | |
| 1958 | 120 | 510 | 451 | 56 | 114 | 19 | 2 | 21 | 200 | 79 | 3 | 1 | 3 | 3 | 45 | 5 | 8 | 94 | 17 | .253 | .329 | .443 | .773 | |
| 1959 | 132 | 526 | 472 | 71 | 124 | 18 | 5 | 21 | 215 | 78 | 7 | 5 | 0 | 6 | 45 | 2 | 3 | 98 | 18 | .263 | .327 | .456 | .783 | |
| 1960 | 124 | 480 | 430 | 66 | 125 | 21 | 4 | 29 | 241 | 88 | 8 | 6 | 1 | 4 | 41 | 2 | 4 | 77 | 15 | .291 | .355 | .560 | .915 | |
| 1961 | 136 | 559 | 494 | 70 | 146 | 17 | 2 | 29 | 254 | 89 | 8 | 2 | 0 | 6 | 54 | 10 | 5 | 71 | 17 | .296 | .367 | .514 | .881 | |
| 1962 | 133 | 571 | 489 | 96 | 151 | 28 | 0 | 44 | 311 | 104 | 5 | 5 | 1 | 7 | 70 | 9 | 4 | 101 | 11 | .309 | .395 | .636 | 1.031 | |
| 1963 | 150 | 643 | 550 | 104 | 160 | 20 | 2 | 52 | 340 | 135 | 4 | 5 | 0 | 5 | 84 | 11 | 4 | 112 | 24 | .291 | .386 | .618 | 1.004 | |
| 1964 | 148 | 641 | 558 | 89 | 146 | 23 | 1 | 41 | 294 | 115 | 7 | 4 | 1 | 6 | 71 | 6 | 5 | 50 | 12 | .262 | .347 | .527 | .874 | |
| 1965 | 136 | 559 | 488 | 92 | 156 | 27 | 1 | 42 | 311 | 110 | 3 | 2 | 0 | 5 | 60 | 16 | 6 | 57 | 16 | .320 | .397 | .637 | 1.034 | |
| 1966 | 133 | 556 | 474 | 82 | 148 | 19 | 0 | 34 | 269 | 97 | 8 | 1 | 0 | 4 | 71 | 13 | 7 | 79 | 12 | .312 | .406 | .568 | .974 | |
| 1967 | 133 | 551 | 472 | 72 | 144 | 27 | 0 | 35 | 276 | 100 | 13 | 4 | 0 | 5 | 68 | 14 | 6 | 53 | 23 | .305 | .396 | .585 | .980 | |
| 1968 | 133 | 567 | 458 | 80 | 119 | 18 | 0 | 38 | 251 | 99 | 2 | 1 | 0 | 3 | 103 | 37 | 3 | 65 | 14 | .260 | .397 | .548 | .945 | |
| 1969 | 106 | 434 | 388 | 44 | 95 | 7 | 0 | 22 | 168 | 52 | 1 | 1 | 0 | 3 | 39 | 7 | 4 | 51 | 21 | .245 | .318 | .433 | .751 | |
| 1970 | 130 | 559 | 481 | 82 | 142 | 11 | 0 | 42 | 279 | 114 | 10 | 4 | 0 | 6 | 66 | 7 | 6 | 47 | 12 | .295 | .383 | .580 | .963 | |
| 1971 | 127 | 531 | 467 | 75 | 131 | 13 | 0 | 29 | 231 | 83 | 12 | 2 | 0 | 1 | 56 | 10 | 7 | 43 | 18 | .281 | .365 | .495 | .860 | |
| 1972 | 129 | 538 | 473 | 62 | 138 | 16 | 0 | 35 | 259 | 101 | 4 | 3 | 0 | 8 | 46 | 6 | 11 | 38 | 17 | .292 | .362 | .548 | .910 | |
| 1973 | 129 | 539 | 475 | 65 | 147 | 18 | 0 | 28 | 249 | 96 | 3 | 6 | 0 | 10 | 51 | 7 | 3 | 48 | 31 | .309 | .373 | .524 | .897 | |
| 1974 | 83 | 307 | 265 | 33 | 56 | 7 | 0 | 12 | 99 | 45 | 2 | 0 | 0 | 2 | 38 | 5 | 2 | 30 | 13 | .211 | .313 | .374 | .686 | |
| 1975 | 129 | 546 | 473 | 63 | 126 | 11 | 0 | 28 | 221 | 92 | 3 | 1 | 0 | 8 | 58 | 9 | 7 | 49 | 17 | .266 | .350 | .467 | .817 | |
| 1976 | 119 | 468 | 429 | 35 | 117 | 13 | 0 | 10 | 160 | 57 | 2 | 2 | 0 | 5 | 29 | 1 | 5 | 50 | 21 | .273 | .323 | .373 | .696 | |
| 1977 | 127 | 493 | 447 | 33 | 95 | 9 | 1 | 16 | 154 | 58 | 0 | 4 | 0 | 8 | 33 | 5 | 5 | 41 | 24 | .213 | .270 | .345 | .614 | |
| 1978 | ロッテ | 64 | 145 | 133 | 7 | 30 | 4 | 1 | 3 | 45 | 12 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 1 | 1 | 15 | 5 | .226 | .283 | .338 | .621 |
| 1979 | 西武 | 74 | 213 | 194 | 14 | 43 | 3 | 0 | 5 | 61 | 22 | 1 | 0 | 0 | 1 | 14 | 0 | 4 | 34 | 4 | .222 | .286 | .314 | .601 |
| 1980 | 52 | 78 | 69 | 9 | 15 | 2 | 0 | 4 | 29 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 2 | 17 | 1 | .217 | .308 | .420 | .728 | |
| 通算:26年 | 3017 | 11970 | 10472 | 1509 | 2901 | 397 | 23 | 657 | 5315 | 1988 | 117 | 64 | 11 | 113 | 1252 | 189 | 122 | 1478 | 378 | .277 | .357 | .508 | .865 | |
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 打率 |
チーム 本塁打 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1970年 | 南海 | 2位 | 130 | 69 | 57 | 4 | .548 | 10.5 | .255 | 147 | 3.43 | 35歳 |
| 1971年 | 4位 | 130 | 61 | 65 | 4 | .484 | 22.5 | .260 | 156 | 4.27 | 36歳 | |
| 1972年 | 3位 | 130 | 65 | 61 | 4 | .516 | 14.0 | .253 | 133 | 3.48 | 37歳 | |
| 1973年 | 1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 1位・3位 | .260 | 113 | 3.35 | 38歳 | |
| 1974年 | 3位 | 130 | 59 | 55 | 16 | .518 | 4位・2位 | .246 | 124 | 3.06 | 39歳 | |
| 1975年 | 5位 | 130 | 57 | 65 | 8 | .467 | 5位・3位 | .246 | 102 | 2.98 | 40歳 | |
| 1976年 | 2位 | 130 | 71 | 56 | 3 | .559 | 2位・2位 | .259 | 97 | 2.91 | 41歳 | |
| 1977年 | 2位 | 130 | 63 | 55 | 12 | .534 | 2位・3位 | .250 | 108 | 3.15 | 42歳 | |
| 1990年 | ヤクルト | 5位 | 130 | 58 | 72 | 0 | .446 | 30.0 | .257 | 123 | 4.24 | 55歳 |
| 1991年 | 3位 | 132 | 67 | 63 | 2 | .515 | 7.0 | .259 | 140 | 3.93 | 56歳 | |
| 1992年 | 1位 | 131 | 69 | 61 | 1 | .531 | (2.0) | .261 | 173 | 3.79 | 57歳 | |
| 1993年 | 1位 | 132 | 80 | 50 | 2 | .615 | (7.0) | .263 | 140 | 3.20 | 58歳 | |
| 1994年 | 4位 | 130 | 62 | 68 | 0 | .477 | 8.0 | .250 | 130 | 4.05 | 59歳 | |
| 1995年 | 1位 | 130 | 82 | 48 | 0 | .631 | (8.0) | .261 | 147 | 3.60 | 60歳 | |
| 1996年 | 4位 | 130 | 61 | 69 | 0 | .469 | 16.0 | .264 | 103 | 4.00 | 61歳 | |
| 1997年 | 1位 | 137 | 83 | 52 | 2 | .615 | (11.0) | .276 | 138 | 3.26 | 62歳 | |
| 1998年 | 4位 | 135 | 66 | 69 | 0 | .489 | 13.0 | .253 | 97 | 3.69 | 63歳 | |
| 1999年 | 阪神 | 6位 | 135 | 55 | 80 | 0 | .407 | 26.0 | .259 | 97 | 4.04 | 64歳 |
| 2000年 | 6位 | 136 | 57 | 78 | 1 | .422 | 21.0 | .244 | 114 | 3.90 | 65歳 | |
| 2001年 | 6位 | 140 | 57 | 80 | 3 | .416 | 20.5 | .243 | 90 | 3.75 | 66歳 | |
| 2006年 | 楽天 | 6位 | 136 | 47 | 85 | 4 | .356 | 33.0 | .258 | 67 | 4.30 | 71歳 |
| 2007年 | 4位 | 144 | 67 | 75 | 2 | .472 | 13.5 | .262 | 111 | 4.31 | 72歳 | |
| 2008年 | 5位 | 144 | 65 | 76 | 3 | .461 | 11.5 | .272 | 94 | 3.89 | 73歳 | |
| 2009年 | 2位 | 144 | 77 | 66 | 1 | .538 | 5.5 | .267 | 108 | 4.01 | 74歳 | |
| 通算:24年 | 3204 | 1565 | 1563 | 76 | .5003 | Aクラス12回、Bクラス12回 | ||||||
| 年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 1973年 | 南海 | パ・リーグプレーオフ(※2) | 阪急ブレーブス(パ・リーグ後期優勝) | 3勝2敗 |
| 日本シリーズ | 読売ジャイアンツ | 1勝4敗 | ||
| 1992年 | ヤクルト | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 3勝4敗 |
| 1993年 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 4勝3敗 | |
| 1995年 | 日本シリーズ | オリックス・ブルーウェーブ | 4勝1敗 | |
| 1997年 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 4勝1敗 | |
| 2009年 | 楽天 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ(※3) |
福岡ソフトバンクホークス (パ・リーグ3位) |
2勝0敗 |
| パ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※4) |
北海道日本ハムファイターズ (パ・リーグ優勝) |
1勝4敗(※5) |
一の位と十の位を足して10になる数字を縁起が良いと言って好んでいる。
「q:野村克也」を参照
渡辺久信は、現役晩年の野村指揮下で過ごしたヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。
その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」として日本プロ野球界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。
阪神監督時代の星野仙一は「教科書としてよく出来ている」ということで『野村の考え』をテキストとして使ったことがある。
原辰徳も野村を高く評価し、また2軍寮に野村の著書を置かせ、2軍キャンプの教材にしているという。また監督復帰直後に「これからは野村監督のようにマスコミを介して選手を促すようなこともやっていかないかもしれない」と語っている。
岡田彰布は野村を高く評価している一方で、自著で「バッテリーの視点からしか野球を見ていない危うさを感じた」と指摘している。
渡辺・岡田・原ともに現在展開している野球はセイバーメトリクスを基調にした野球であり、現在もそのまま野村理論を継承している監督はいない(野村は「落合博満と一番気が合う」と発言)。そのうえで野村を尊敬し、バッテリー戦術などを高く評価しているといったスタンス。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
This text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. Last update: 2010年3月22日 18:08:23:JST